近況アップデート

おはようございます。今日はここから開始しましょう。「生きてゐる人間なんて仕方のない代物だな。何を考へてゐるのやら、何を言ひだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解った例しがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。其処に行くと死んでしまつた人間といふものは大したものだ。何故あゝはつきりとしつかりとしてくるんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつゝある一種の動物かな」──小林秀雄『無常といふこと』ですが、坂口安吾『教祖の文学』(『堕落論』角川文庫、p.204)からの孫引きです。

坂口安吾小林秀雄を全面的に批判していますが、でも私自身は、小林秀雄の意見に賛成です。歳を取ってそう思うようになりました。若い頃は安吾が好きでしたが、どうでもよくなりました。

死んでしまった人間がしっかりしているし、人間の形をしているから、鑑賞や観察に堪えるのは当然です。

ジャズを考えても、はっきりしたことがいえるのは、ビル・エヴァンスまででしょう。それ以降は確定的なことは何もいえないはずです。現在存命の人々は全員、「何を考へてゐるのやら、何を言ひだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解った例しがあつたのか」ということになります。

現在存命の人々が今、人気があっても、将来、後世どうなるのかは誰にも分かりません。歴史に残るかどうか分かりません。後藤さんが否定する大西順子だけではなくて、西山瞳でも松本茜でも誰でも同じですし、日本人に限らず外国人でも、例えばキース・ジャレットについて同じことがいえるでしょう。稲毛の『キャンディ』のママさんがキースの熱烈なファンだとしても、彼女の個人的な思い入れと全く別問題として、そのキースの『ケルン・コンサート』の価値や評価は確定していないはずです。

哲学にしても、はっきりしたことがいえるのは、メルロ=ポンティまででしょう。それ以降のフランス現代思想は誰一人歴史に残らないし、後世の人々からも記憶されないと思います。日本の文脈でも同じです。小林秀雄は記憶されるでしょうが、彼以降の人々は記憶されないし歴史にも残らないでしょう。吉本隆明でも柄谷行人でも全員同じです。

私がそういうのは、日本においては文芸批評家が哲学者の代理をしましたが、彼らの理論を吟味すると、ろくに代理できていないからです。そういう代理をやったのは吉本隆明柄谷行人の二人だけですが、彼らの著作を素直に読めば、信じてしまうのではなく疑問を感じるのが当然です。

例えば、言語についてこういうことをいう人が信用できるでしょうか。──「たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする。人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときある叫びを〈う〉なら〈う〉と発するはずだ。また、さわりの段階にあるとすれば、海が視覚に映ったとき意識はあるさわりをおぼえ〈う〉なら〈う〉という有節音を発するだろう。このとき〈う〉という有節音は海を器官が視覚的に反映したことにたいする反映的な指示音声だが、この指示音声のなかに意識のさわりがこめられることになる。また狩猟人が自己表出のできる意識を獲取しているとすれば〈海(う)〉という有節音は自己表出として発せられて、眼前の海を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示するということになる。このとき、〈海(う)〉という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる。」(吉本隆明『定本言語にとって美とはなにか 1』角川書店、p.31)──私はこういう議論は疑わしいと思います。

「子の曰わく、由よ、女(なんじ)にこれを知ることを教えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり。」金谷治訳注『論語』(岩波文庫)、p.33。「教えんか」の「教」は難しい字ですが、パソコンで変換できませんので断念しました。

「季路、鬼神に事(つか)えんことを問う。子の曰(のたま)わく、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。曰わく、敢えて死を問う。曰(のたま)わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。」『論語』、p.146。

戦前、中井正一は『論語』のことを、「感嘆符のある思想」と捉えましたが、妥当だと思います。当たり前ですが、『論語』は、『新約聖書』や『ブッダのことば』とは異質な世界です。『ソクラテスの弁明』とも違います。かつてのヤスパースとか、現代の「モラロジー」などの右翼は、聖人だからという理由でごっちゃにしてしまいますが、そういうことは不当です。

同じように『論語』に依拠しても、伊藤仁斎荻生徂徠は全然違います。徂徠は「鬼神論」を考えますが、私は疑わしいと思います。徂徠が中国語で読んだからテキストの読みがより精密だったとしても、関係ない話です。

(うまれでくるたて
 こんどはことにわりゃのごとばかりで
 くるしまなぁよにうまれでくる)

宮沢賢治の『永訣の朝』です。

「またひとにうまれてくるときは
 こんなにじぶんのことばかりで
 くるしまないやうにうまれてきます」

これはいったいどういふわけだ
息がだんだん短くなって
いま完全にとまってゐる
とまってゐると苦しくなる
わざわざ息を吸い込むのかね
  ……室いっぱいの雪あかり……

宮沢賢治の『病中』です。

血がでてゐるにかかはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
ただどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方から見たらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです

宮沢賢治『眼にて云ふ』です。

わがやがて死なん
今日又は明日
あたらしくまたわれとは何かと考へる
われとは畢竟法則(自然的規約)の外の何でもない

宮沢賢治『(一九二九年二月)』です。

「夢の世のうつゝなりせばいかゞせむ さめゆくほどを待てばこそあれ」──明恵上人の一番有名な和歌です。

「見ることはみな常ならぬうき世かな 夢かと見ゆるほどのはかなさ」

「長き夜の夢を夢ぞと知る君や さめて迷へる人を助けむ」

「常ならぬ世を捨つるとも君ぞ知る ものぐるはしと人はいふ身を」

「心から狂ひ出でぬるまどひ子は 這はれむかたへ這うては死ねよ」

「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」

「しるべなきわれをば闇にまよはせて いづくに月のすみわたるらむ」

「漕ぎゆかむ波路の末を思ひやれば うき世のほかの岸にぞありける」

「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)と云ふ七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪(わろ)きなり。」(『梅尾明恵上人遺訓』)

「我は後世(ごせ)たすからんと云ふ者に非ず。たゞ現世に、先づあるべきやうにてあらんと云ふ者なり。」

明恵上人が20世紀に再評価された理由はふたつあります。ひとつは彼の和歌です。もうひとつは「明恵上人夢記」です。それに河合隼雄のようなユング派や、高橋悠治などの芸術家が注目しました。でも、仏教者として明恵がどうだったのかということは、よく分かりません。

「俺は母音の色を発明した。──Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。──俺は子音それぞれの形態と運動とを整調した、しかも、本然の律動によって、幾時かはあらゆる感覚に通ずる詩的言辞も発明しようとひそかに希うところがあったのだ。俺は翻訳を保留した。」──小林秀雄が翻訳したランボー『地獄の季節』、「錯乱2」、「言葉の錬金術」です。

「俺は架空のオペラとなった。俺はすべての存在が、幸福の宿命を持っているのを見た。行為は生活ではない、一種の力を、言わば、ある衰耗をでっち上げる方法なのだ。道徳とは脳髄の衰弱だ。」

「断じて近代人でなければならぬ。」

「まだまだ前夜だ。流れ入る生気とまことの温情は、すべて受けよう。暁が来たら俺たちは、燃え上る忍辱の鎧を着て、光かがやく街々に入ろう。」

「何事を賭しても、どんな姿になろうとも、たとえ形而上学の旅にさまよおうとも。──いや、そうなればなおさらの事だ。」

「そういった問題じゃないんだよ。私たちは三人なんだ。みんなのことを考えなくちゃいけない。私たちはずいぶん多くのお金を使ってしまった。どう考えても君に送ってあげられるだけのお金はもうないのだよ」
最初の涙が二筋、彼女の目から頬へとつたった。彼女の悲しみを見ることに耐えきれず、ジェイソンは機械的に言葉を続けた。
「どちらが良いと思う? 借金をしてお金をたくさん使うか、それともここらで生活を切り詰めるかだ」
娘は何も言わずに泣き続けた。週に一度の面会に病院に向う間もずっとジョーの涙は止まらなかった。

フィッツジェラルドの『哀しみの孔雀』(村上春樹訳)です。

「彼女がそう口に出してから、彼の視線の先にあるものが酒壜でないことに気づいてはっとした。彼が眺めている場所は、昨夜彼が酒壜を投げつけたあの片隅だった。彼の弱々しく反抗的に見える整った顔をじっと眺めたまま、彼女はそこに目をやることもできなかった。彼の眺めているその片隅に立っていたのは死そのものであったからだ。彼女も死というものを知らぬわけではなかった。耳に聞いたこともあれば、そのまぎれもない匂いをかいだこともあった。しかし人間の体に入り込まぬ独立した死に出会ったのははじめてのことだった。この人はバスルームの片隅にいる死そのものをいま眺めているんだ。そして死はそこに立って、弱々しい咳をしては唾をズボン吊りになすりつけているこの男をじっと見つめているのだ。まるでそれが彼の最後の動作の証しであるかのように、ズボン吊りはしばらくのあいだこわばりながら光っていた。」フィッツジェラルド『アルコールの中で』

「翌日、彼女はミセス・ヒクソンにそれを伝えようとしてみた。」

「どんなに一生懸命やったところで、それを打ち負かすことなんてできないんです。たしかにこの人は私の手を掴み、ちぎれるくらいにねじりあげるかもしれない。でも、そんなことはたいしたことじゃないんです。本当にたまらないのは横にいながら手を差しのべることもできないってことなんです。何をしたところで結局は人を救うことはできないという無力感なんです」

「死はわれわれにとって何ものでもない。なぜなら、分解したものは感覚をもたない、しかるに、感覚をもたないものはわれわれにとって何ものでもないからである。」『エピクロス

「人はだれも、たったいま生まれたばかりであるかのように、この世から去ってゆく。」

「亡くなった友人にたいしては、悲嘆によってではなく、追想によって、共感を寄せようではないか。」

「亡くなった友人の思い出は、快である。」

「どういうつもりなの。どうしてこんなことをするの」紗江良が叫ぶように尋ねた。
「どうしてだろうな。俺にもわからない」
三樹雄は、今初めて自分が何を持っているのか気づいたかのように腕の中の美和を見下ろした。
「俺はこの子のことが好きだった。それなのに、いつも、こうなってしまう」(倉数茂『黒揚羽の夏』)

「おまえたちは生きているのが地獄だと思ったことはあるか。あんまり苦しいんで何も感じないでいたら、どんどん自分が空っぽになっていく感覚がわかるか。一分一秒が地獄だと、人は感覚を断ち切ってしまう。見えているものを見ず、聞こえているものを聞かず、痛みを痛みを感じず、屈辱を屈辱だと気づかない。そのようにして、俺は凍りついた空っぽの部屋になった。空っぽの部屋に、怒りと哀しみだけが雪のように降りつもった。初めてあの映画を見たとき、空っぽの俺の中に何かが入り込んできてしまったんだろうな。それは俺を占領してしまった。それから俺はずっとそいつと一緒に生きてきた」
「そんなものわかるわけないじゃない」(『黒揚羽の夏』)

「今となって唯ひとつ後悔しているのは、親父を手にかけなかったことだな。最初にあいつを殺っておくべきだった。だがもっとよかったのは、最初から俺が生まれてこなかったことだ」(『黒揚羽の夏』)

「ある日爺さんは俺に縄をわたしてこれで首を締めてくれと言った。だから締めた。俺は怖くて小便を漏らした。それが俺が人を殺した初めだ。今ではもうずいぶん昔のような気がする。そのとき、年をとってから死ぬのは惨めだからやめようと思った。その癖、今まで生きてしまった」(『黒揚羽の夏』)

「誰も助けてくれなかったし、誰も僕らのことなんて気づいてくれない。僕は、自分が透明人間になったような気がした。いつかこのまま死んでしまうのかと思うと恐ろしかった」(『黒揚羽の夏』)

いーぐるnote 2012
http://8241.teacup.com/unamas/bbs

後藤さんが議論で私に勝てないのは当たり前ですが、だからといってジャズの専門知識を持ち出してやっつけてみるとかいうのはどうかしていますから、呆れてしまいます。

後藤さんがジャズ喫茶を経営する評論家で何十年間も毎日ジャズを8時間以上聴き続けているから私よりジャズのことをあれこれ知っている、とかいうのはいうまでもないことです。

だから偉いという話ではないはずです。ジャズ喫茶はただ単に彼の仕事、労働ですから、一日8時間ジャズを聴いていようとそんなことが何だ、と思います。

私が腹を立てるのはそういうことです。彼はジャズはただの「趣味」ではないからそれが分からない奴は馬鹿であるとかいいます。でも、私にとっては、「趣味」だけではなくても、仕事でもありません。一銭にもならないからです。他方彼はジャズの本を沢山書いて売り、ジャズ喫茶も経営しているから、彼にとっては紛れもなく仕事です。そういう意味で立場が異なるのだということくらい思い至らないのでしょうか。

そういう私は短気で粗暴なだけですから、狂犬とかいわれても致し方がないでしょう。彼は運が悪く噛み付かれただけのことです。

どうでもいいことですが、2001年、柳原さんと論争して論理、理屈で勝てなかったので、彼を監査委員会に告訴してやっつけてしまった西部さんの振る舞いを思い出して不愉快になりました。まともな議論ができないので別の手法でやっつけるとかいうのは卑劣です。

Bud Powell "Inner Fires".
Bud Powell "Lullaby Of Birdland".
Bud Powell "Piano Interpretations".
Bud Powell "Blues In The Closet".
Bud Powell "The Lonely One...".
Bud Powell "The Amazing Bud Powell Volume One".
Bud Powell "The Amazing Bud Powell Volume Two".
Bud Powell "Jazz Giant".
Bud Powell "The Genius Of Bud Powell".
Bud Powell "Stricly Confidential".
Toshiko Akiyoshi Trio Featuring Motohiko Hino "Live At Blue Note Tokyo '97". (龝吉敏子=秋吉敏子トリオ(鈴木良雄日野元彦)『ライブ・アット・ブルーノート東京'97』)

感情的になっているというよりも、もしあなたが、私が「パウエル=クレオパトラの夢」だというならば、遺憾であるというだけです。
大西順子の件については、com-postのクロスレビュー中山康樹さんの『かんちがい音楽評論』(彩流社)も読んでみます。
「往復書簡」について私が申し上げたいのは、少し熟慮したほうがいいという程度のことです。投稿で書きましたように、今後私自身もあなたがたと一緒にソシュールを勉強するつもりです。ジャズの音源を参照するのも当然でしょう。ただ、余り根拠が不明な議論をするのはいかがなものか、とは思います。特にmiyaさんについてそう思います。後藤さんがはてなダイアリーの"think"で続けておられるような考察に反対であるわけではありません。メルロ=ポンティヤコブソンを参照しながらの思索は刺激的ですし、意味があると思います。ただ、ソシュールメルロ=ポンティフーコーとかいう「往復書簡」についてはちょっと待ってくれ、といいたくなりますし、上記の3人を丁寧に吟味できなければ、ウィトゲンシュタインに行ったとしても同じことなってしまうのではないかと推察します。

私も言い過ぎたのを謝ります。
私が思うのは、ジャズが存続する限りパウエルは不滅でしょうが、大西順子を含めて今生きているアーティストが後世どう評価されるかとか、歴史に残るかどうかは全く分からない、ということです。大西順子だけではなく、西山瞳も松本茜も外国人も全員同じです。確実に価値があるだろうといえるのはエヴァンスまでではないでしょうか。それ以降の人々はもう少し歳月が経過して「歴史」にならないと、評価が定まることはないような気がします。上原ひろみ、スガダイローその他の人々も、現在人気があっても、将来どうなるのかはちょっと分かりません。私は個人的に菊地雅章(P.M.P.) "Miles Mode"、橋本一子 "Miles Away", "Miles Blend"は凄いと思っていますが、でもそれはただの個人的、主観的意見です。後藤さんその他の意見のような専門的な意見ではありません。

ハル・ウィルナーの『Weird Nightmare : Meditation On Mingus』(Columbia)および、ポール・モチアンの『Garden Of Eden』(ECM)は持っていませんので、お金の余裕ができたら購入して聴いてみるということになります。ジャッキー・バイアードは何枚か持っています。が、後藤さんの質問の意図が測りかねます。私としては聴き直してからお返事したいと思います。今はパウエルを聴いていますから、その後ということになります。その前に確認させていただければ、ハル・ウィルナーとポール・モチアンについてどういう理由から私に質問するのか教えていただければ幸いです。そうでなければ、意味が分かりませんから。

失礼ながら、後藤さんのおっしゃることがさっぱり分かりませんので、私が書いたことをもう一度繰り返させていただきます。現代の人々については、もう少し時間が経過しませんと、客観的な評価は定まらないのではないだろうか、というのが私の意見でした。もし、「客観的な」などといえないとおっしゃるのなら、別に「共同主観的(間主観的)な」と言い換えても構いません。

そして、ビル・エヴァンスを目処にしたのも、不当とは思いません。バイアードはともかく、後藤さんが言及された2枚を知りませんでしたが、私の念頭にあったのは、例えば、ハービー・ハンコックチック・コリアキース・ジャレットなどでした。そうした人々の評価が定まるまでには(この評価が定まる、というのは、それこそ共同主観的、間主観的に、ジャズ愛好家達や批評家、評論家、ジャズ喫茶経営者やその客達で議論して、意見を擦り合わせて或る一定の合意に達することができるのならば、そうなるだろうというくらいのことです)、もう少し時間が必要なのではないか、という考えは間違いである、とおっしゃりたいのでしょうか。

後藤さんのお考えはよく分かりませんが、後藤さんと意見が違う人々もいるのも当然ではないでしょうか。

「生きてゐる人間なんて仕方のない代物だな。何を考へてゐるのやら、何を言ひだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解った例しがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。其処に行くと死んでしまつた人間といふものは大したものだ。何故あゝはつきりとしつかりとしてくるんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつゝある一種の動物かな」──小林秀雄『無常といふこと』ですが、坂口安吾『教祖の文学』(『堕落論』角川文庫、p.204)からの孫引きです。坂口安吾小林秀雄を批判しましたが、私は小林秀雄に賛成です。それは死者のほうがいいのだということではありません。現在進行形で活躍中の人々について、後世の評価とか、歴史に残るかとかについて、確定的なことは何もいえないのではないか、ということです。例えば上原ひろみについて、彼女は絶対に後世の人々からも記憶されるとか、必ずジャズの歴史に残るだろうとかいうことは断言できないのではないでしょうか。私はそう考えても不当ではないはずだと思いますが、後藤さんは否定されるのでしょうか。

「子の曰わく、由よ、女(なんじ)にこれを知ることを教えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり。」これは『論語』ですが、知っていることは知っている、知らないことは知らない。当然のことです。

哲学、思想、批評、言語学その他の経験諸科学、人間諸科学についてテキストを実際にまともに読む、熟読することができなければ何も分からないしろくな議論になるはずがないというのと同じように、音楽でも具体的な音源を具体的に聴いてみて検討しなければ何もいえません。後藤さんが言及されたCDにしてもAmazonで購入して聴かなければ意見はいえません。そして、金銭が無尽蔵にあるというわけでもありません。後藤さんがその2枚がジャズ認識に絶対必要だとおっしゃるなら買うでしょうが、でも今日、今すぐAmazonに行ってクリックすることもできないでしょう。バイアードは別ですが、そのうち聴き返してからもう一度意見をいいますが、記憶の範囲でいえば、悪くないと思います。天才、絶対的に優れている、とかではなくても、ひどいとか、だめだというふうには私は感じませんでした。ですが、私が後藤さん達と一緒になってバイアードを否定しなければならないのだ、というのが後藤さんの意見なのでしょうか。もしそういうことなら、不当であるというしかありません。

ルネサンス研究所からメールが来ました。いつも来るのですが、ちょっと申し訳ない感じがします。私は何もしていないからです。

理由は分かりませんが、最初、ルネサンス研究会に入れなかったのです。元(二代目)NAM代表の農業の田中正治さんに口添えしていただいて、ようやく入れました。入れましたが、しかし残念なことに、病気、貧困で何もできていません。私には東京まで行くことすら困難です。

会合にも参加できないし本当に何もできませんから、たまに来るメールを眺めるだけです。

漠然とですが、自分が「共産主義」のために働くのいうのもちょっと違うような感じもします。私は微温的だからです。

協同組合に取り組むのもいいでしょうが、自分自身がかつてNAMをやってみた体験から、21世紀の日本で協同組合を作ることに困難がある、ということも考えます。実際、NAMには(批評空間社以外)作れませんでした。ニュースクールはNPOでしたし、QはNPOにもなっていないはずです。

NAMがうまくいかなかったから、ルネサンス研究会もそうだろうとはいえないし、うまくいくのかもしれませんが、私にはちょっと分かりません。

私は教育学の素人ですが、自分なりの考えをいえば、ニュースクールが行き詰まったのは、柄谷さんと山住さん(大阪教育大学の専門の教育学者です)の「能力のある子供を育てたい」というそもそもの方針が無理だったと思います。現実をいえば、不登校になる子供の多くは特権的に能力があるどころか、いろいろ問題を抱えて苦しんでいる子供ではないか、と考えるほうが普通だし、常識的です。

ですから、ニュースクールを開いても能力ある子供達が集まらなくても仕方なかったし、子供が山住さんの教育学理論の実験材料ではないのも当たり前です。私は(自分も少額ですが金を出していましたから)ニュースクールのメーリングリストを観察していましたが、保護者があれこれ気を揉んで心配していましたし、当たり前だと思います。

山住さんやその仲間達が新しい教育、理想の学びの場を作りたくても、理想がそのまま実行できるということにはなりません。それは東京でやっていた飛弾さんや私でも同じでした。飛弾さんは、山住さんがNPO法人でニュースクールを設立したから、早く自分も同じような具体的なことがしたい、それも株式会社を作りたいと主張しましたが、私が反対しました。でも私が反対しなかったとしても、例えば会社設立の資金集めはどうするのか、といった具体的な問題にすぐぶつかったはずです。私は2000年に飛弾さんに反対したのが間違っていたとは思いません。

理念よりも、ニュースクールに入ってくれた子供達の保護者があれこれ心配しているということのほうが大事です。柄谷さんが現実を知らなくてもしょうがなかったでしょうが、山住さんは教育学者なので、不登校その他の子供の現実を直視すべきだったはずです。

凄い子供を育てるとか考えず、普通に教育すればよかったはずなので、そのことは残念です。

山住さんの同僚とNAM全国大会でお会いしたから、山住さんがどういう人か質問したことがあります。その人の返事は、「問いよりも先に結論があるような人」だというようなことでしたが、その人には批判の意図はなかったとしても、それでは駄目だったと思います。問いや問題よりも自分の勝手な結論が先にきてしまう、というのは要するに現実を無視するということです。

不登校学生運動、ボイコットである、という柄谷さんも現実を無視していました。現実の分裂病者に興味がないのに分裂病者を美化していたドゥルーズと同じです。私自身は完全な不登校ではなくても、学校が嫌いでよく休んでいましたが、不登校学生運動とかボイコットとかではないのだということは、ちょっと考えれば誰でも解るはずです。

それから、山住さんはもともと西部さんと友達でQプロジェクトにも入っていたはずですが、Qを民事的に告訴するという運動の先頭に立ってしまったのはいかにも残念でした。彼の言い分は、ニュースクールのような小規模なNPOにはQの会費も負担が大きいということでしたが、確かに当時のQの団体会員の会費は高過ぎたと私も思います。でも、それほどニュースクールの経営状態がきつければ、そもそもQに入らなければよかったし、会費の返還を要求するとか直ちに応じなければ民事的に告訴するとかいうのは変です。それ以降私が彼を信じなくなったのは当たり前ではないでしょうか。

そもそも「Q失敗宣言」を勝手にやってしまったNAM名古屋集会の情報も入ってきていましたが、山住さんが柄谷さんのタイコモチを余りに露骨にやっていて見苦しいから見るに堪えなかったというようなことでしたから、そういうことががっかりなのも当然です。

ちょっと厳しいことをいえば、そういう人に教育者の資格があるのか、と考えてしまいます。

話を戻せば、山住さんは彼の作ったニュースクールに入ってくれた子供や保護者をもっと大事にすべきだったと思います。恐らく彼なりに大事にしたのでしょうし、そうであったことを祈りますが、子供にはニュースクールがNAMから出てきたとかそのNAMが崩壊したとかは関係ない話です。そして子供の子供時代というのもただ一度きりですから、間違えたということでは済まされません。

山住さんは教育学者でしたから、教育や子供の現実を熟知していて当然ですが、熟慮するような人ではなかったから、天才的な子供を育てるとか超人的な子供を育てるとかいう柄谷さんに疑問を抱かなかったのでしょう。

西部さんの地域貨幣、山住さんのフリースクールはNAM以外の一般人を巻き込み迷惑を掛けるような話です。厳しいことをいえば、地域貨幣もまずNAMのなかでやってみて、うまくいったら、一般の人々を誘えばよかったと思います。西部さんだけではなく我々自身も含めて配慮が足りなかったと思います。

例えば商売人や商店が地域貨幣に入ってきて、結果的に経済的に損をしてしまっても、西部さんも地域貨幣の委員会も、誰も責任を取れなかったでしょう。

責任を取るという考えそのものを病理的と看做した柄谷さんはしょうもなかったし、かといって彼個人の金銭を支払って賠償しようとした杉原さんについても、彼個人が自分の金銭を払うとかいう話ではないとしかいえません。

それこそ経済的責任があるというなら、NAM資産管理委員会には400万円から600万円の金銭があったのですから、杉原さん個人ではなく資産管理委員会が金を出せばよかったというような話です。

それに杉原さんが経済学マニアだから、地域貨幣は誤謬だと思っても、本当に現実がそうなのかはよく確かめないといけないし、彼個人がいきなり私財をなげうつというのはどうみても短絡的です。

私の意見では、地域貨幣の問題は、経済学の理論とは関係がなく、レジでの決済をどうするかとか、税務処理をどうするかなどのむしろ卑近な問題です。私が残念なのは、西部さんにそういう小さな(けれども地域貨幣を使ってくれた商店にとっては大切な)事柄への関心がなかったことです。

ちょっとした思い出話ですが、飛弾さんというのは昔、リクルート社にいて、その後某大手予備校に勤務してずっとやってきた人でしたが、小説を書いたり、(故)中上健次熊野大学に毎年行くような人でした。2000年当時から彼は「柄谷行人への信」が口癖でしたが、当時私が一番付き合っていたのは彼だったはずですが、その私でも、ちょっと自分は「信」とまでは言い切れないと思っていました。特に理由はありませんが、漠然と間違えるかもしれないと思ったし、実際2002年にそうなったわけです。

飛弾さんが生活の面倒も見てやるみたいな甘いことを言ったのを本気にしてしまい、大変な状況に陥ってしまった人も見ましたが、そのとき私が飛弾さんには気を付けたほうがいいと考えたのも当然です。

私が間違えると考えたのは、蛭田さんのアパートで彼が集めていた『情況』か何かを読んだからだと思います。柄谷さんのインタビューが載っていましたが、柄谷さんは、自分についてくると大変なことになる、といっていましたから、そういうものを読んで不安になったり心配しても自然でしょう。

飛弾さんと会話していてよく分からなかったのは、彼はNAMに入ってきたのですから一応左翼のはずですが、江副とかリクルート社は正しい、弾圧した社会が間違っている、というのが持論だったことです。それほど資本主義が正義だと思うなら、資本主義への対抗運動などやらなければよかったはずです。それに彼にとって対抗運動というのは要するに会社を作って事業をやるのだということでしたから、結局資本主義そのものと全く同一です。

その飛弾さんが、2012年の現在もまだ「柄谷行人への信」を実践し、柄谷さんと行動を共にしているのもしょうがないでしょうが、会社の同僚か部下である根本さんも巻き込んでしまっているのは疑問です。根本さんは別に普通のサラリーマンで、柄谷信者ではありませんから、飛弾さんの個人的な動機に付き合わされる筋合いはないはずです。

飛弾さんには善意や熱意は人一倍ありましたが、昔からそうだったし私自身のこともそうですが、失敗の可能性が高い自分の個人的な運動に他人を幾ら巻き込んでも平気であるというのは、ちょっと非倫理的と思われても致し方がありません。2000年に経営計画すらなく会社を作ろうとしたこともそうです。

飛弾さんと蛭田さんが二人とも柄谷さんの抜本的なファンなのは、彼らが、山城さん、鎌田さんのような知識人、批評家でもないのに、どういうわけか「NAM設立準備会」をやっていた事実からも明白ですが、その彼らは不仲でした。というか、蛭田さんがよく飛弾さんの悪口をいっていました。飛弾さんの話は「飛弾節」だというのです。つまり熱っぽく誇大な話をして他人をその気にさせるが、その人が結果的にどうなってしまっても知ったことではないというようなことですから、どうしようもありませんでした。

2002年末には、柄谷さんが、飛弾さん、蛭田さんを動かして私を説得させ、Qから「L」への転向を強要しようとするといった残念な出来事もありましたが、そういう行為は、結果的に、人間関係も友情も全部ぶっ壊しただけのことでした。

私がNAMは無意味でろくでもなかったというのは、そういうふうに主要な個々のNAM会員の言動をよく観察し吟味したうえでそういっているわけですから、決して根拠がないことではありません。それを実態をろくに知らない広島の松原さんが簡単に覆せると考えるのは間違っていると思います。

Bud Powell "The Amazing Bud Powell Volume 3: Bud!".
Bud Powell "The Amazing Bud Powell Volume 4: Time Waits".
Bud Powell "Swingin' With Bud".
Bud Powell "Strictly Powell".

柄谷さんのメールはパソコンが壊れて失われましたが、要するに内容は、とにかく「L」はあっという間に拡大するから君もQなどさっさとやめて「L」をやるべきだ、そのことを飛弾さん、蛭田さんと相談すべきである、もしいうことを聞かなければ絶交するしNAMに残ることも許さない、とかいうしょうもないものでした。民事的に告訴すると脅迫してきた実の息子とくだらなさではいい勝負です。

飛弾さん、蛭田さんと私が仲が良かったことに付け込む柄谷さんはしょうもないですが、彼がやったのはそういうことだけではありません。当時彼は近畿大学の研究所の所長でしたから、大学の講師に誰を採用するかも或る程度自由にできましたが、NAM会員に、就職、社会的地位、金銭など甘い言葉で釣って自分のいうことを聞かせ従属させるようなことまでしました。それで実際に柄谷さんに従って近畿大学に就職できた人もいましたが、人間は弱いものですし、まともな職業、社会的地位、収入がないのがいやなのはみんな同じですからしょうがなかったのだとしても、そういうことを目撃した私が深く嫌悪、軽蔑するのも当然のことです。もともとNAMはそういう話ではなかったはずですが、NAMを創設した柄谷さん自身が都合よく忘却してしまったようです。