近況アップデート

Bud Powell "Hot House"では演奏の途中で、Powellの唸り声が余りに恐ろしいので、子供が泣き出してしまいます。実際、恐ろしいです。とても苦しそうな声です。そういう声はPowellのlive盤にはいつも聴こえます。"Live in Geneve 1962"でも聴こえます。

Miles Davisは悲惨な状態のBud Powellに驚いて、酒を飲み過ぎた状態でpianoを演奏するのは良くない、と忠告したそうですが、多分Powellの抱えていた問題は単なる深酒ということではなかったでしょう。

晩年の(後期の、つまり1953年以降の)Bud Powellが「人間的」だからいいのだという人は多いし、私もそう思いますが、でもその「人間的」というのは非常に悲惨な光景です。

初期のPowellは超絶技巧で鬼気迫るが、後期は哀愁が漂い寛ぎがあるという意見もありますが、そういう側面がないわけでもないとしても、やはり後期になってもPowellは異様な世界です。Art TatumOscar Petersonとは違います。多分jazz pianoの技巧だけでいえば、PowellよりもTatum, Petersonが上だったでしょうが、Powellという人の音楽性は技巧に還元できないはずです。jazzの歴史のどこを探してもPowellのような人はいないと思います。

Art Tatum, Oscar Petersonはどんなに急速調のpassageになっても決して寛ぎを失いません。つまり、彼らのpianoの技巧には常に余裕があったということです。しかし、Bud Powellは違います。それはPowellの技巧が劣るということではありません。彼のpianoのタッチは異様です。異様に強く激しいものです。比較するとすれば、クラシックのホロヴィッツくらいしかいないと思います。

それから、当たり前ですが、Powellという人は時代が変わっても簡単に自分を変えることができませんでした。彼は死ぬ直前にNew Yorkに帰りますが(死にに帰ったようなものですが)、jazzの世界は一変しており、彼のスタイルは古臭くなっていました。けれども彼は変わることができなかったし、変わるつもりもなかったのです。Powellは初期にスタイルを確立してから死ぬまで一貫して変わりません。

時代が変わっていたというのは、1960年代前半ということですが、もうビバップの時代ではなくなり、モード、フリー、「コルトレーン・チェンジ」などが流行っていましたが、そういうものに適応できなかったということです。だから、"The Return Of Bud Powell"に至るまで、Powell独自の世界のままです。

けれども「コルトレーン・チェンジ」についていけなかったというのは、『ジャイアント・ステップス』でコルトレーンと共演していたトミー・フラナガンも同じです。菊地成孔の意見では、その盤ではフラナガンは満足に頻繁なコード転換に適応できなかったので、後に自分のトリオで再録音して雪辱を晴らしたということです。時代が変わっても、人間がすぐ変わることができないというのはいつになっても同じなのではないでしょうか。

そのコルトレーンにしても、フリージャズに到達する前に何度もスタイルを変えていますし、フリーになってからも、盤によって演奏様式が相当違いますから、同じ「フリー」と括ることもできないと思います。例えば最後の『エクスプレション』は独特の世界で、それまでとは違います。フリーに到達する前の一番大事な変化は、モンクとの遭遇でしょう。モンクと共演することを通じて音楽的にあれこれ変わったと思います。50年代はレッド・ガーランドなどとよく共演し、典型的なハード・バップでしたが、後に「シーツ・オブ・サウンド」などと呼ばれるスタイルを確立しました。モンクは音が少ないのですから、そのモンクと共演して「シール・オブ・サウンド」を編み出すのも変ですが、ピアニストのランディ・ウェストンが、遂に録音されなかった「ファイヴ・スポット」での伝説的なモンクとコルトレーンの共演を回想して、「モンクが生み出した間を、コルトレーンが埋めていく」と評していましたが、実際そんな感じだったのでしょう。

けれども私は、モンクと遭遇して変貌する前の、普通のハード・バップ奏者だったコルトレーンも相当好きです。特に好きなのは、タッド・ダメロンと共演した『メイティング・コール』(これに入っている「ソウルトレーン」は素晴らしい曲です)と、フレディ・ハバード他と共演した『スターダスト』です。コルトレーンの『スターダスト』を褒める人はいませんが、私は個人的には、ライオネル・ハンプトンの歴史的名演といわれる『スターダスト』と同じくらい好きです。

ダメロンと共演したときのコルトレーンは、非常に若々しいし朴訥な印象ですが、それもいいと感じます。ダメロンは優れたピアニスト、作曲家、編曲家で、「ビバップの頭脳」といわれた人です。ファッツ・ナヴァロでもクリフォード・ブラウンでも、ダメロンのアレンジをバックに吹いて名演を残しています。だから偉大な人なのですが、ギル・エヴァンスなどに比べると、それほど知られていないし、不運だったと思います。彼が自分の思うような編成で録音することができたのは少なかったはずです。『マジック・タッチ』と『フォンテーヌブロー』だけなのではないでしょうか。

『スターダスト』では歌では、ナット・キング・コールがいいといわれるし実際そうなのでしょう。サラ・ヴォーンにも『スターダスト』の名演があったはずです。後のことですが、ハンク・ジョーンズのグレイト・ジャズ・トリオにも『スターダスト』という一枚がありました。『スターダスト』はジャズ史のなかでも1、2を争う名曲なのですから当然ですが、名演がたくさんあります。

ピアニストではアート・テイタムが、若い頃から死ぬまでに何度か「スターダスト」を録音していますが、どれも非常に素晴らしい演奏です。

それから、職業的な演奏家のレヴェルに達しているわけではもちろんありませんが、私自身も「スターダスト」を好んで弾きます。それをYouTubeにアップロードしないのは、余り良い演奏ではないというのと、著作権の問題があるだろうと思うからです。

けれども、ドラムの大学生が芸音をやめてしまいましたので、スタンダードを演奏する機会は全くなくなってしまいました。

私のピアノが聴きたいといってやってくる奇特な方も稀にいますが、本当に珍しいです。

パウエルに戻りますと、生涯スタイルを変えなかった彼を聴くと懐かしい感じがします。でも、偉大なピアニストの多くがそうです。ハービー・ハンコックのように頻繁にスタイルを変える人のほうが珍しいでしょう。テイタム、ピーターソン、エヴァンスなども、一旦自己のスタイルを確立しますと、死ぬまでそれを守りました。

ビル・エヴァンスは『カインド・オブ・ブルー』でマイルス・デイヴィスと共演し、この盤はエヴァンスの参加なしには不可能だったのですが、マイルス自身は『カインド・オブ・ブルー』が最終到達地点というわけではなく、それからも何度もスタイルを変えました。特に『ビッチェズ・ブリュー』が多くの聴衆を驚かせたわけですが、エヴァンスはというと、死ぬまでスタイルを変えませんでした。『ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』などは、若い人には不可能な音楽だとは思いますが、基本的な演奏や技術の枠組みは変化がなかったと思います。

『ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』は非常に素晴らしい演奏ですから、ピアニストであれば挑戦してみたくなるのが当然です。クリヤ・マコトさんも南博さんもこの盤におけるエヴァンスに挑戦していますが、けれども、エヴァンスを超えるというのは難しいはずです。エヴァンスの達成というのは絶対的なものですから、これを超えてしまうのは非常に困難です。クリヤさんも南さんも、非常に繊細なリリシズムのピアニストだと思いますが、その彼らでも、エヴァンスを超えるというのは難しかっただろうと思います。

そのクリヤさんは、若い頃相当実験的な演奏が多くて(それこそヒップ・ホップを取り入れたようなびっくりするような演奏です)、「宇宙人」とか呼ばれたはずですが、次第にリリシズムを表現したCDが多くなったと思います。近年の"Your music is my music"などがその最高の一枚だと思います。20周年記念盤の"Art for life"も素晴らしいものでした。

南博さんでは、『エレジー』が一番好きです。その南さんと一時Facebookで繋がっていましたが、でも彼は私が暗いことばかり書くのでいやになってしまったようですが、そういうことも当たり前だと思います。

クリヤさんのヒップ・ホップを取り入れた一枚というのは、『クール・ジャイヴ』という題名だったと思いますが、確かに意表を突くような演奏です。クリヤさんはシンセサイザーを演奏していると思います。

話を戻しますが、確か岩浪洋三さんが実際にエヴァンスのライヴ演奏を聴いて感想を書いていたと思いますが、エヴァンスはCDでは非常に繊細ですが、ライヴでの彼は精悍だったそうです。私は当然、エヴァンスのライヴを観たことはありませんから、分かりませんが、エヴァンスがリリシズムだけの人ではないだろうということくらいは推測できます。というよりも、プロのジャズピアニストでリリシズムだけでやっている人というのはいないはずです。例えばドン・フリードマンがどうかというのは、ドン・フリードマンをちゃんと検討していないので何ともいえませんが。

現代の日本の若い女性のジャズ・ピアニスト達は全員ロマンティックですが、その彼女達にしても、演奏のどこかに強さを感じます。そうでなければプロになれないでしょう。例えば妹尾美里さんもそうです。彼女の『ローズバッド』は現在入手できなくなっており、非常に高値で取引されているようですが、早めに入手しておいて良かったと感じます。

男性にしても、名前を忘れましたが、『地球は愛で回ってる』というCDを作った人(註:松永貴志さん)も、非常にロマンティックで繊細だけれども、強い音楽性だと感じます。彼は『報道ステーション』の音楽を以前担当したし、昔、天才少年だと話題になったはずです。

若い男性のピアニストでは、私が知っている範囲では彼が一番素晴らしいと思います。南さんは中年ですから若いとはいえないし、スガダイローさんは私と同じ歳か一歳年上だったと思いますから、若い人のなかでは彼が最高だと思います。もちろん私が知らない良いピアニストが沢山いるのでしょうが、私はライヴに行くことができないので、CDを出してくれなければ知ることができません。そういえば、妹尾美穂さんという人も聴きたいと思っていますが、残念ながらお金があまりなくて、彼女のアルバムを購入してません。iTuneで購入しようかなと思っています。そのほうが安いですから。

それから、石田幹雄さんという若いピアニストがいて、私は彼のライヴに行ったことがあります。稲毛のキャンディだったはずです。彼の演奏も素晴らしいものでしたが、彼のスタイルはフリーです。『霞』というCDを出したはずです。

cyubaki3が松本茜さんの『フィニアスに恋して』が素晴らしかったといっていましたが、でもその彼女のCDはジブリ作品集なども含めますと大量にありますから、全部買うなどということはできません。ですから、『フィニアスに恋して』、『プレイング・ニューヨーク』を聴くというようなことになります。それと彼女は、iTuneでしか販売していないソロピアノのスタンダード集がCD10枚分以上あるはずです。ダウンロード販売でもそれほど安くないですから、いきなり全部買ってしまうのはどう考えても不可能ですが、私は2枚か3枚ダウンロードして聴いてみたと思います。テイタムのような絶対的な存在とは比べられませんが、でもそのテイタムのソロピアノを思い出しました。考えてみると、トリオではなくソロピアノで膨大なスタンダードを録音したのは、テイタム以外余りいなかったように思います。

『フィニアスに恋して』はなるほど素晴らしいですが、松本茜さんの演奏を聴いても、フィニアス・ニューボーン・ジュニアから特に影響を受けているとは感じませんでした。ちなみに私はフィニアスは全部聴きました。『プレイング・ニューヨーク』ではパウエルの影響が強いと思いますし、彼女のTwitterではオスカー・ピーターソンが好きだとプロフィールに書いていました。オスカー・ピーターソンバド・パウエル、フィニアス・ニューボーン・ジュニアなどの影響を総合的に受けたと考えるのが妥当なのでしょう。

その昔、或るジャズ雑誌の企画で、モンクにブラインドで音源を聴かせて感想をいわせたということがありました。フィニアスも掛かったのですが、モンクは、バドと似ているが全然違う、といったそうです。

確かにフィニアスとバドはまるで違いますが、フィニアスが劣るという話ではないでしょう。フィニアスやバドのレヴェルになると、もう誰もが絶対的な存在ですから、誰が誰かよりも優れているとか劣っているという話にならないはずです。オスカー・ピーターソンも、フィニアス・ニューボーン・ジュニアの実力を認め評価していました。フィニアスがピーターソンの後継者ということにならなかったのは、年齢が近過ぎたのと、フィニアスには神経疾患の問題があったからです。それは最初はアルコール中毒、最終的には精神分裂病です。アルコール中毒から精神分裂病に到達するなどということが精神医学的にいって本当にあり得るのかは疑問ですが、とにかくフィニアスという人が病気で大変だったから、演奏活動も間歇的になってしまったというのは客観的な事実です。それでも遺されたCDは病気の影を感じさせない素晴らしいものばかりです。フィニアスには破綻した演奏がひとつもないのです。

後継者がどうのということでいえば、スティットの証言を信じていいか分かりませんし、多分に伝説的な逸話だということになるのでしょうが、パーカーが死ぬ前に、スティットに会って「王国の鍵は君に渡すよ」といったというような話がありました。スティットはパーカーから影響されてああいうスタイルになったのではなく本人がいうには最初からそうだったそうですが、多くのサックス奏者のなかで最もパーカーに近かったのは確かでしょう。他の可能性を考えてみれば、ジャッキー・マクリーンとかソニー・クリスでしょうが、でも彼らもパーカーとは全然違います。

自由連想的に話していますから、話が飛びますが、晩年のモンクが保護者のニカ男爵夫人に唐突に「僕は重い病気だ」といったそうです。モンクが他人に有意味なことを話すことは余りありませんでしたが(特に晩年はそうです)、ニカ男爵夫人も印象に残ったのでしょうが、そう証言しています。

モンクが他人に有意味な話をしなかったというのは、精神病の問題と性格の問題を両方考える必要があります。モンクは、不当かもしれませんが、奇人と思われていましたから、インタビューに来る人々は基本的に失礼なことばかり訊いてくるわけです。そういうのがいやだからはぐらかしたという可能性も十分にあります。でも、それだけではありません。ドキュメンタリー映画『ストレート、ノー・チェイサー』を観ますと、モンクがコミュニケーション困難なのはインタビュアー相手だけではなく、一緒にビッグバンドをやっている楽団員に対してもそうです。モンクに何か音楽的な意図があっても、それを明瞭な言葉で表現できません。散々の試行錯誤の後、チャーリー・ラウズが、「こういうことなんだ」と気付いて他の楽団のメンバーに説明していたと思います。

でも晩年の彼は精神病というほかないと思います。あらゆる他人に対して、"No!"以外の応答をほとんど全くしなかったのだそうです。

モンクが唐突に「僕は重い病気だ」といったのは、身体的な疾患か精神的な疾患か分かりませんが、恐らく身体的な何かの疾患だったのではないでしょうか。そして他人にほとんど言葉を発しなかったモンクが自分からそういうことを話し掛けたというのは、実際に体の具合が相当悪かったのではないだろうかと考えることもできます。

モンクは72年だかの『ロンドン・コレクション』3枚組の後、何度かライヴ録音があったとしても、基本的にはずっと隠退しています。公衆の前に姿を現わすのをいやがったのも、身体的な病気が理由だったはずです。彼は余り他人に恥ずかしい姿を見られたくなかったのです。