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ドゥルーズの『意味の論理学』を検討しますが、その前に簡単に『差異と反復』を整理します。『差異と反復』は序文、序論、結論を除けば5つの章から成り立っています。第一章はそれ自体としての差異を考察しますが、要するに存在論です。ハイデガーの強い影響がありますが、ヘーゲルライプニッツを検討して幾つかの批判をしていることが重要です。特にライプニッツへの批判が重要です。彼は晩年に『襞』というライプニッツ論を書きますが、ライプニッツ主義者ではなかったし、それに『襞』にしてもホワイトヘッドの『過程と実在』によってライプニッツを大幅に補足しています。ホワイトヘッドにしても「神」などを考えますが(だからラッセルから否定されてしまいましたが)、ホワイトヘッドの神は最善世界を選択するライプニッツの神とも一般的なキリスト教の神とも異なります。

『差異と反復』の第一章が存在論だといっても、ハイデガーとは全く違います。ハイデガーなら非存在(non-etre)や?-存在(?-etre)などを考えることはなかったでしょう。?-存在というのは問題的な存在、問題提起的な存在ということでしたが、ドゥルーズが考える存在というのは問題を提起して人に思考を強制するようなものでした。

第二章は「反復」を論じていますが、反復というのは要するに人間の行為のことであり、生態とか風俗習慣といった意味での倫理の問題です。彼は反復を、(1) 生命 (2) 記憶 (3) 死というふうに展開しますが、経験論哲学を使って展開してから、もう一度、精神分析の概念で展開しています。そのふたつの展開に対応関係があるかどうか、一致しているのかどうかは分かりません。

ドゥルーズが生命の反復として想定するのはヒュームですが、以前言及したように彼が改竄し書き換えてしまったヒュームです。普通に『人性論』を読んでも生命過程の哲学であるという考えにはなりません。ドゥルーズプロティノスの新プラトン主義やサミュエル・バトラー(邦訳があるものでいえば、彼は『エレホン』というユートピア小説の著者です)を援用しながら、ヒュームの思想は「観照」であり「縮約」であるから生命過程であると考えてしまいます。ドゥルーズの文脈では「観照」になってしまいますが、元々のヒュームの文脈では「観察」と考えるべきものでしょう。ヒュームにとっての問題は認識であったはずですが、ドゥルーズはそれを生命の問題に変えてしまいました。彼自身が自著はSFであると認めているのですから、そういうことで良かったのでしょう。

次に記憶の反復として想定するのはベルクソンですが、そのベルクソンにしてもいろいろな意味で書き換えてしまいます。元々初期のベルクソン論において既にそうでしたが、ドゥルーズベルクソン存在論にしてしまいます。そうしますと、経験科学との関連などで考えず概念だけで考えることになりますから、見事に整理された綺麗な図式になりますが、そういうことがいいか悪いかはまた別問題です。さらに、『差異と反復』において決定的なのは、プルーストの『失われた時を求めて』から引用しながら、あり得なかった経験の記憶、その想起を問題にしていることです。プルーストベルクソンを読んでおり、ベルクソンの影響があったのだとしても、その点で彼らの考えは全く違います。

ベルクソンフロイトの過去についての考え方の相違もそこにあります。ベルクソンはありとあらゆる個別的な体験がそっくりそのまま、ありのままで純粋記憶として保存されると考えました。ところが、フロイトにとって、「過去それ自体は、無い」のです。彼にとって過去の記憶とは常に事後的であり、変形、歪曲を蒙っていないありのままの過去などというものはあり得ません。そこから、ヒステリー患者の治療において問題になった偽記憶の問題が出てきます。ヒステリーや神経症の患者を精神分析して、幼年期の外傷体験の記憶を想起させたとしても、追跡調査し検証してみるとそれが現実にはあり得なかった、つまりその患者の幻想のなかの出来事であったことが発見されたのです。フロイトはそのことに驚いて彼の理論を修正しましたが、そういう問題は現在に至るまで続いているというのは以前言及した通りです。特にアメリカで、サイコセラピーを受けてとんでもない幼年時代の記憶を想起してしまい、自分の親を法律的に告訴してしまう膨大な数の人々がいて社会問題になっています。イアン・ハッキングがそのことについて本を書いています。そういうことになりますと、それはもう哲学や精神分析だけの問題ではないということになります。

死の反復ということでドゥルーズが考えるのはニーチェ永遠回帰ですが、クロソウスキーの解釈の影響が強いのが事実だとしても、ドゥルーズがいういろいろなことが本当に妥当なのかは分かりません。クロソウスキードゥルーズは、ニーチェ全集のフランス語訳の監修者であったはずですが、その彼らのいうことでも、正確かどうかはよく確認する必要があります。

精神分析を用いた展開においてはフロイトメラニー・クライン、ラカンを参照しますが、この三人がそれぞれ生命、記憶、死に対応しているというような綺麗な図式ではなかったはずです。特に重要なのは死の本能についての考え方です。『マゾッホとサド』でも『意味の論理学』でも同じ意見を執拗に繰り返していますが、ドゥルーズにとっては、特に言語との関わりで「死の欲動」と考えたラカンとは異なり、死の「本能」が重要でした。彼の考えでは死の本能は「沈黙」しており、まさに「本能」と形容されるのが相応しいようなものでした。

第三章は「思考のイマージュ」と題されていますが、後年のドゥルーズが新たなイマージュを生産するというようなことを考えたのと異なり、60年代においては「イマージュなき思考」を追求しています。イマージュなき思考というのは、常識(共通感覚)や良識などに拘束されない、道徳的な先入観から解放された思考ということですが、具体的にどういうことなのかはよく分かりません。ただ、彼はアルトーの「生殖的」思考を挙げています。

第四章は数学論で微分やリーマン多様体を扱います。第五章は自然科学論で物理学や生物学を扱います。私は理系の知識がないのでそれが妥当な議論かどうか確信をもって判断できませんから、留保しておきます。邦訳者の財津理も第四章、第五章はあくまで試訳であると断っていました。それにソーカルの『知の欺瞞』も、ドゥルーズを攻撃していたはずです。

ただ確実なのは、ドゥルーズダーウィンや新ダーウィン主義を積極的に評価し、特に「突然変異」を称えていることです。彼は突然変異が個体の可能性を限界まで追求するものだと考えたのです。

『差異と反復』の話はこれで終わりで、『意味の論理学』に移りますが、これは公平にいってドゥルーズのなかで一番いい本です。そうはいっても、何度読んでも奇妙な論理構成の本ですし、最終的に読解していくのが困難であるというのには変わりがありません。ちなみに、ドゥルーズガタリが知り合ったのも、ガタリラカン派の雑誌のために『意味の論理学』の書評を書いたけれども、ラカンが掲載拒否したので、ドゥルーズのところに持っていったというのがきっかけでした。『機械と構造』という題名の書評です。

『意味の論理学』の全体を説明するのは不可能なので、言語との関わりだけ抽出しますが、その前に概要を記します。まず、冒頭、言語について一定の概念枠組みで考えますが、その根拠はフッサールです。ところが、後半、精神分裂病を持ち出してフッサールを否定してしまいますから、つまりは冒頭の概念枠組みそのものも否定していまったということです。そしてメラニー・クラインを中心に精神分析を考察して終わります。そういう奇妙な本です。ヘーゲルの『大論理学』やフッサールの『論理学研究』が現代論理学のいうような意味での論理学ではないというのと同じ意味で、ドゥルーズの『意味の論理学』も論理学ではありません。

何年か前に小泉義之による『意味の論理学』の新しい翻訳が河出文庫から出ましたが、私は持っていません。私が持っているのはフランス語の原書、英訳、宇波彰岡田弘による旧訳(法政大学出版局)ですが、宇波彰の翻訳には多くの問題があります。例えば元々論理学者のマイノングの用語だったようですが、extra-etreという言葉が使われていますが、それが「超存在」、「過剰存在」と違った訳語になっていたりします。それから、ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」が「存在の包括性」となっていたりします。

内容をみていきますが、ドゥルーズは言語を4つの側面から考えます。(1) designation (2) manifestation (3) signification (4) sens.

(1) (2) (3) は円環をなしています。そのいずれが最終的な根拠があるか、優位にあるかをいうことはできません。(4)の導入をドゥルーズは躊躇しています。(1) (2) (3) からなる円環で満足するのが普通だからです。(4)を考えるということは、言語の逆説的な側面や謎を考えるということです。

(1) (2) (3)に論理学の専門用語としての定訳があるのかどうか知りませんが、(1)が「指示」であるのは間違いないでしょう。(2)は表出か表現、(3)は意味作用か意義です。とりあえず仮に指示、表現、意義としておきます。通常これだけの要素が揃えば言語も命題も成り立ちます。

指示ということで問題になるのは、言語によって構築された命題と言語外の現実、「物の状態」です。ドゥルーズバンヴェニストという言語学者の指示語という概念に言及していますが、ラッセルにも同じ趣旨の有名な論理学の論文があったはずですが、指示というのはつきつめれば「これ」ということです。「これ」と指し示される事物を見るということです。例えば、「この樹木は緑である」という命題があるとしますと、その命題と現実の樹木を比較して、その樹木が本当に緑であればその命題は真であるというようなことになります。

表現とか表出ということで問題になるのは、語る主体、話す存在、「私」です。それは話される言葉、語られる言葉、パロールの領域であり、信念や欲望の領域です。

意味作用とか意義ということで問題になるのは要するに論理です。言語の一般性を保証するのは意義、即ち論理です。「内包する(implique)」、「故に(donc)」であり、言語(ラング)の領域です。これがありませんと、普通の意味での言語とか言葉が成立しません。「これ」は目の前の事物を指し示すだけですから個別的、特殊的なだけですし、言葉を話すこの「私」はただ単に主観的です。ですから、論理的要素が介入して初めて言葉は言葉といえるだけの一般性を獲得するということになります。

「あなたが見ている青と私が見ている青は違う」といっても、その違いを言葉で説明できないといいましたが、語ることができなくても示すことができる可能性があります。「これを見てくれ」と指し示すというようなことですが、そういうことの有効性も疑わしいでしょう。なぜなら私の身体組織と他人の身体組織は微妙に異なるので、「これを見てくれ」といって他人に見てもらっても、私の知覚と他人の知覚が一致するかどうか分かりませんし、それを確かめる手段も全く何一つありません。

さらにもし、生まれつき目が見えない人のことを考えるとすれば、問題はもっと難しくなります。「私が見ている青」を青を見たことがない人に伝えることなどそもそもできないでしょう。こういった問題は昔からロック、バークリー、ライプニッツ、現代では大森荘蔵によって考えられています。17-18世紀の議論は「モリヌークス問題」と呼ばれます。http://www.furugosho.com/precurseurs/locke/molyneux.htm

目が見える人と見えない人が絶対的に違うなどといわなくても、それでも困難があります。ウィトゲンシュタインの例ですが、「私は歯が痛い」というようなことを誰か他人に伝達できるのでしょうか。私の歯痛はどこまでも私の歯痛であるだけであり、それを他人に伝達することなどできず、その他人はただ単に推測したり推論したり想像したりすることができるだけなのではないでしょうか。これはもう言語の問題にとどまらず、他者、他我の問題であり、フッサールの『デカルト省察』やサルトルの『存在と無』などがそれを考えています。フッサールの意見は他者、他我の認識は間接的呈示、類比によるしかあり得ないということでした。例えば誰かが歯が痛いと訴えるとき、私は、自分自身が歯が痛かったときの経験を思い起こしてその人の苦痛を想像してみるというようなことしかできません。

ドゥルーズが「意味(sens)」などという逆説的な審級を持ち込まなくても、既に指示、表現、意義の関係は複雑で困難です。パロールとラングのいずれが優位にあるかをいうことはどうしてもできません。ラングが個々の話者を越えた社会的実在だとしても、それでも実際に言葉を話す誰かが存在しないのならば言語が存在することにならないからです。メルロ=ポンティ加賀野井秀一ソシュールを検討してもパロールを重視しましたが、彼らは現象学者なのですから当然です。ラカンにしても、パロールを重視していた時期とそうではない時期があるし、それにこのことはラカニアンではない私にはよく分からないので詳しく言及できませんが、晩年には「ララング」を考えました。初期のラカンパロールを重視したというのは、例えば、「汝はわが妻なり」というような言葉が「創設的」であるというようなことです。そのような言葉を他者、つまりこの場合は自分の妻に語り、そして妻がその言葉を承認することによって初めて、「夫婦」関係、婚姻関係のような社会的、象徴的な関係が成立します。

「指示」にしても簡単に片付く話でもありません。現代論理学を創設した論理学者達は、タルスキなども含め、最初簡単に考えていました。命題を事物と照合して真偽を確定すればいいと思っていたのです。けれどもやがて、そうではないのではないかと考えられるようになりました。「この樹木は緑である」という程度のことであれば別ですが、例えば現代物理学は多数の命題が連結して成立していますから、そこから単独の命題だけを取り出して検証、反証したり事実と照合したりすることはできませんし、意味がありません。クワインは主著の『ことばと対象』で、検証、反証や真偽の確定は単独の命題ではなくもろもろの命題の総体についてなされなければならないと考えました。このような考えは「全体論ホーリズム)」といわれます。

ルフレト・タルスキ(Alfred Tarski, 1901年1月14日 - 1983年10月26日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AD

ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン (Willard van Orman Quine, 1908年6月25日 - 2000年12月25日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3

クワインが考えたのは科学の問題でしたが、現代英米哲学に詳しいわけではないので私の意見が間違っているかもしれませんが、「全体論」は科学に限らず一般に妥当する可能性もあります。「この樹木は緑である」という程度のことすら、ドゥルーズの場合であれば60年代末のフランス語、私の場合であれば2012年現在の日本語の体系において成り立つ可能性があるというだけなのではないでしょうか。ということは、経験、体験そのものが、既に言語に媒介されており、故にそこから何か一つを単独で取り出して検証しても意味がないのではないでしょうか。経験や体験自体が多数の命題や事実が連結して成り立っているのではないでしょうか。

ドゥルーズの議論が絶望的なまでに難しいのは、彼がさらに「意味(sens)」という余計な次元を追加してしまったからです。彼によれば、「意味」を発見したのはストア派、オッカム学派のグレゴリウス・ド・リミニとオトルクールのニコラウス(14世紀)、マイノング(19世紀末)です。そしてそのリミニにはアンドレ・ド・ヌフシャトー、ピエール・ダイイが、マイノングにはブレンターノ、ラッセルが反論したといわれますが、14世紀のことまで細かく調べる余裕がありません。

彼はこの段階ではフッサール現象学(『イデーン』)に依拠しています。「意味」はフッサールのいう「表現(expression)」であり、ノエマなのだといいます。当たり前ですが、ノエマイデア的なのですから、現実の「この樹木」が燃えてしまうことがあるとしても、「意味」、ノエマが燃えることなどありません。けれども、彼が現象学者であるわけでもありません。彼はそのフッサールも否定してしまいます。