近況アップデート

Bud Powell Trio "The Scene Changes".
Bud Powell Trio "Bud Powell In Paris".

穂積一平という人がいます。有名なコンピューターのプログラマーで、特にPERLというコンピューター言語で書きます。その穂積さんは、NAMに入ってきましたが、くだらないという理由でやめました。Qの委員会でWindsというソフトウェアを開発しました。Winds_qというのはそのWindsを、地域通貨Qで使えるようにカスタマイズしたものです。

NAMやQで残念な出来事が多かったのは当然ですが、穂積さんもいやな思いを沢山しました。ですから、彼は、NAMが潰れてしまってから、『web重力』に寄稿したり、宮地剛というQの代表のパン屋さんと二人で『その後の意見』というweb-siteを作って意見をいいました。宮地さんはカフェ・コモンズを開いて店長になりましたが、しばらくしてそれもやめました。

穂積さんと宮地さんは若い頃から親友でしたが、彼らが出会ったのは大阪の文学学校でであったということです。その文学学校とかがどういうものか知りませんし興味もないですが、後年彼らがプログラマーやパン屋になったとしても、もともと文学を志向していたということだけは確かです。

さて、そういうわけで穂積さんはNAMを批判しました。そういうことはいいと思うのですが、私からみて疑問に感じるところが幾つかありました。

宮地さんの文章に比べて穂積さんの文章のほうが原理的でしたが、その穂積さんの考えでは、NAMを否定するということは柄谷行人浅田彰を否定するということでした。確かにNAMを作ったのは柄谷行人ですから、柄谷行人を否定してもいいと思いますが、浅田彰はただふたつの例外を除いて全く何もしなかったのですから、その浅田彰まで否定してしまうというのは私にはわけが分かりません。浅田彰がNAMに関わったふたつのこととは以下です。まず、浅田彰はNAMの評議会に自分は全国大会に行くのがいやだというメールを送り付けてきました。ふたつめに、9.11の直後、柄谷行人と二人で、京都の南無庵で「非暴力で考える」という集会を開きました。そして、ただそれだけです。

穂積さんの基本的な発想はNAMや柄谷行人浅田彰を否定するために吉本隆明の論理まで戻るということでしたが、私にはそういうことが理解できません。NAMとか柄谷行人を批判するとしてももっとまともで有意味なやり方があったはずなのではないかと思います。

穂積さんが書いていたことを私なりの理解で要約すればこういうことです。吉本隆明の一貫した考え方は、「大衆の原像」を自己思想に繰り込むということが思想家や知識人の課題であるということでした。吉本隆明は80年代に『マス・イメージ論』を書きますが、「マス・イメージ」というのが、「大衆の原像」を英語でいってみたというだけだというのは誰の目にも明白です。

柄谷行人浅田彰にとって吉本隆明は無意味なので、当然彼らは「大衆の原像」などを考えませんが、穂積さんによればそういうことが間違っているそうです。

穂積さんは「大衆の幻像」とかいう自分勝手な造語で、NAMを批判したつもりでした。彼の意見では、柄谷行人浅田彰は「大衆の原像」を否定したが、実際のNAM会員は「大衆の幻像」だったではないか、とかいうことでしたが、私にはそういうしょうもない理屈を言い募る穂積さんが理解できません。

穂積さんがNAM会員を批判していたのは主要にはふたつの理由です。ひとつは知的大衆ということですが、別に知的などといっても、褒めているわけではもちろんありません。戦前か戦後すぐに、「亜インテリ」を批判するといった議論がありましたが、そういうものを想像すれば妥当です。彼がいいたいのは、NAM会員は柄谷行人の著作や『批評空間』誌の読者連中だったが、そういうことがくだらないではないか、というようなことでしたが、私はそういうつまらない嫌味をいうことが意味がある批判だとは思いません。

穂積さんの批判のふたつめは、ヴァーチャル、インターネットということでした。彼はそのことを「ネット・キッズ」だとか「神経」しかないからつまらない脊髄反射しかできない連中であるというふうに表現していました。なるほど事実そうだったのでしょうが、そういう批判も意味があるとは私は思いません。NAMがインターネットを重視したのは、ヴァーチャル空間で何でもやれてしまうなどと思い込んだからではなく、通信費の節約と、メンバーが世界中に散らばっているからリアルに会うのが簡単ではないからというのが理由です。そういう現実的なことまで考慮しなければ空論だと思います。

宮地さんの理屈はずっと単純で、NAMが「あいつは敵だ。敵は殺せ」というような党派の論理に堕落したのが誤謬だというようなことでしたが、それは宮地さんのいう通りですが、けれども彼がいっていたことはそれだけではありません。

宮地さんと穂積さんは『その後の意見』というweb-siteを作り、彼らのエッセイやlets_think ML全文を公開していましたが、それは現在はインターネットから消えてしまっています。

私は、彼らがlets_think MLを作ったことが悪いとはいいません。ただ、私はその全文を何度も精読、熟読しましたが、疑問に感じるところが幾つかあります。

宮地さんの意見は、柄谷行人自身やNAM会員には現実の経済が分かっていないということでした。特に蛭田さんや私が名指しで非難されていました。そういうことをいってもいいのですが、そういう宮地さんが自分はパン屋だから現実の経済がよく分かっているなどと自慢していることには首を傾げてしまいます。

私の経験からいえば、自分が観念的ではなく現実的であるなどと自慢するような人にろくな人はいません。宮地さんが自分は現実の経済を理解しているから観念的ではないなどと誇るとき、彼自身の出発点が大阪の文学学校であり、若い頃の彼自身が文学的であり観念的だったというようなことを忘却し、なかったことにしています。そういうことでも別にいいのですが、当時彼が家業のパン屋をやっていたというただそれだけの理由で、NAM会員を現実の経済が分からないと馬鹿にする資格があると思えてしまったというようなことは私にはわけがわからないし、そういうことは不毛だと思います。

そういうふうに私がいうとしても宮地さんや穂積さんに対して不当に、或いは残酷に振る舞っていないはずです。それにもし、2012年現在のQがそれほどうまくいっていないならば、それはもう我々が嫌がらせをしたからという理由だけではないはずです。なぜならば、我々は2003年にQを去りました。それからずっと彼らが地域貨幣を続けていて、現実的、技術的な改良ができないとすれば、そのことを我々のせいにしてしまうことはもうできません。