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おはようございます。死んだ吉本隆明のことを少し書きます。彼の出発点は戦時中、文学少年であり軍国少年だったことですが、戦後の彼の若かった彼を決定的に動機づけたことがふたつありました。それは多くの職場を転々として自滅的な労働運動を繰り返していたということと、恋愛における三角関係です。

彼が自滅的な労働運動を繰り返していたというのは、若い彼にはマルクス主義や左翼の影響があったということでしょうが、それはこういうことです。或る会社なり工場なりに入ると、彼は必ずその職場で労働組合、労働運動を組織しようとします。途中まで少しうまくいくこともあったかもしれませんが、けれども、いつも必ず労働者達から裏切られて見捨てられてしまい、彼は孤立し一人になってしまいます。そして職場を去るよりほかありませんが、そういうとき、屈辱感と自分を裏切り見捨てた労働者達への憎悪だけが残ります。そして、次の職場に入ると同じことを繰り返します。そういうことを延々とやっていました。

恋愛における三角関係というのは、彼が結婚するとき、女性を他の男性と争って奪ったというようなことですが、そういうときにもやはり憎悪がどうしても生じてしまします。

吉本隆明には『初期ノート』がありますが、私は読んでいないか読んだとしてもつまらないので忘れてしまいました。文学少年の習作の域を出ないはずです。

『初期ノート』を度外視すれば物書きとしての吉本隆明は『マチウ書試論』からみるべきでしょうが、これを高く評価する人が多いのは私には理解できません。要するに『新約聖書』を手掛かりに初期(原始)キリスト教団を考察、推測したというものですが、彼にギリシャ語、ヘブライ語、文献学の知識があったわけではありません。ただ単に素人が思い付きを書いただけです。田川建三のような聖書学者とは違います。ちなみに田川建三には『思想の危険について』という説得的な吉本隆明批判があります。

『マチウ書試論』の思想は吉本隆明が考えた「関係の絶対性」という表現で要約できます。簡単にいえば、後に国教になってしまうとしても、最初、キリスト教の教団は権力者、つまりローマ帝国から残酷に弾圧されてしまいます。そうしますと、そのキリスト教徒の人々はどうしてもそういう政治権力に憎悪や怨恨を抱いてしまいます。「関係の絶対性」というのは、そういう状況において憎悪してしまうのは仕方がない、必然である、といった考えです。

吉本隆明ニーチェを読んでいたはずですが、ニーチェの思想はまさにキリスト教の怨恨感情(ルサンチマン)を根底的に批判するものであったはずでした。けれども、吉本隆明はその全く逆です。憎悪や怨恨がいいのだというような話ですが、それがいいことだとは少しも思いませんが、世界的にみて、これだけ憎悪や怨恨に積極的に動機づけられ、憎悪や怨恨を積極的に肯定するような思想というのはちょっと珍しいと思います。

もちろんただちょっと『新約聖書』を読んでみただけの吉本隆明に2000年前のローマ帝国とかキリスト教にリアリティがあったわけではありません。そもそも彼は後に親鸞について本を書きますが、キリスト教徒であったことがあるわけでもありません。そういうことは彼にはどうでもいいことでした。

文学者とかいう人々はよくそういうことをやりますが、吉本隆明は彼自身の現実状況を2000年前の中東に投影していただけのことでした。つまり彼自身が、自滅的な労働運動を繰り返すなかで彼を裏切る労働者連中を憎悪してしまうし、三角関係の対立者を憎悪してしまうというようなことを肯定したというだけのことです。彼の書いた詩も要するにそういう心情を歌ったものです。ですから、初期の吉本隆明の書いたものを「憎悪の主調低音」と評する人々がいるのは実に適切です。

ちなみに柄谷行人は、後年吉本隆明が「関係の絶対性」を「関係の客観性」と言い直してしまったことを批判していました。柄谷行人は妙に「理論的」になってしまった60年代の吉本隆明よりも50年代の吉本隆明の批評のほうがヴィヴィッドであると考えるからですが、私はそうは思いません。「絶対性」を「客観性」と言い直したというのは、どうしようもない主観的な憎悪の感情を客観化、科学化しようとしたということなのでしょうが、どうみてもそうしたほうがいいに決まっています。それに文芸評論から出発しても後年わけのわからぬ「理論」を作ってしまうなどは柄谷行人も同じです。

柄谷行人吉本隆明を憎悪するのは近親憎悪以外ではありません。柄谷行人鎌田哲哉を、エディプス・コンプレックスを自覚できないから馬鹿であるなどと罵倒しましたが、そういうことをいうならば柄谷行人自身が同じです。『近代日本の批評』で柄谷行人吉本隆明を執拗に罵倒するのに呆れて、蓮實重彦が自分には理解できないといっていましたが、そんなものが誰にも理解できないというのは当然でしょう。吉本隆明柄谷行人鎌田哲哉は、いかに「理論」などで粉飾しようと実は憎悪以外に何もないという点で全く同じです。

吉本隆明の「憎悪」のことをもう少し書きますが、その前にちょっといえば、吉本隆明マルクス主義者、マルクス者(こんな勝手な用語などありませんが)などではなくただ単にヘーゲリアン、それも奇形的なヘーゲリアンです。吉本隆明はドイツ語を含めて外国語が一切全くできませんから、ヘーゲルマルクスを自分勝手に読んでわけのわからぬ「理論」などを構築してしまったというだけのことでした。世界的な思想家だとか戦後最大の思想家などという話では全くありません。

例えばマルクスは「存在が意識を規定する」と書きましたが、吉本隆明はそれを自分勝手に読んで「存在が意識を規定するというのは意識が存在を規定するという逆規定を含む」などと考えてしまいます。一事が万事そういう調子です。吉本隆明が建設、構築したわけのわからぬ「理論」は、吉本隆明に特異な意味不明な用語法ではなく一般的な用語法でいえば、上部構造が相対的に自律しているのだという意見を執拗にいってみたというだけのものでした。『言語にとって美とはなにか』も『共同幻想論』も全部同じです。

吉本隆明は若い頃に膨大な文学論、政治論を書きましたが、そこには憎悪以外何もありません。2012年の現在からみればもう事実関係もどうでもいいというような話ですが、吉本隆明は圧倒的な憎悪をもって論敵であると看做した人々を罵倒し、残酷な言葉で殺戮したというだけのことでした。ところが、吉本隆明の評論を読んで三島由紀夫は喜んでしまい、闘牛を刺殺する闘牛士のように昂奮させるなどと激賞しました。どうしてそういうことになってしまったのでしょうか。三島由紀夫自身は別に左翼でも何でもありませんでしたから、吉本隆明が書くような政治時評など他人事だったからです。三島由紀夫はボクシングやプロレスを観戦して愉しむのと同じように吉本隆明の評論を愉しみました。吉本隆明大江健三郎を罵倒するが三島由紀夫を絶讃するのは、若い頃褒めてもらったからというだけです。

どこからどうみても誤解というしかありませんが、吉本隆明学生運動家、左翼活動家達の間で熱狂的に読まれるようになったのは68-69年の全共闘以降です。60年安保の時点で吉本隆明は無名でした。当時彼は全学連と共に行動し、国会に突入されて逮捕されました。そのとき吉本隆明が釈放されて警察署の正面玄関から出てきたというただそれだけのことを、花田清輝は嘲笑し、諷刺するくだらない詩を書きました。吉本・花田論争などはそういうことに吉本隆明が激怒して花田清輝を「転向ファシスト」などと罵倒したというただそれだけのもので、それ以上の意味など一切ありません。

60年安保で吉本隆明全学連と行動を共にし、全学連の集会でスピーチもしましたが、多くの人々は彼のことを知りませんでした。当時の彼の演説は言葉少なく誠実な印象だったそうです。当時大規模デモが国会を取り囲み、吉本隆明にしても全学連と共に国会に突入しましたが、しかし彼は、別に、そういうことが革命であるなどというような誇大妄想を抱いたわけではありません。岸信介内閣が退陣してしまうようなことになれば上出来だし、そしてそれで十分だと考えていました。そしてそれはその通りになりました。

全共闘のときに吉本隆明はカリスマになってしまいましたが、わけがわかりません。当時の彼にとって重要なのは『言語にとって美とはなにか』の執筆であって、政治などではありませんでした。彼にとっては『言語にとって美とはなにか』を書き上げることが自分なりの「勝利」でしたが、そういうことは彼本人以外の他人には全く関係がないし、理解できるようなことでもありません。後書きで「勝利だよ、勝利だよ」とか書いてしまうようなことは、客観的にいえば呆れ返ってしまうような話です。

当時彼は『情況』を書き(ちなみに、普通の人が「状況」と書くのを「情況」と書いてしまうのも彼に特異な表現法で、模倣、真似する膨大な人々がいました)、丸山眞男を批判しました。丸山眞男は事実しょうもないことをいいましたが、それでもやはり吉本隆明のロジックは変です。

それはこういうことです。全共闘の学生連中が丸山眞男の研究室に突入して滅茶苦茶にぶっ壊してしまいました。驚いた丸山眞男は「君達はナチスさえもやらなかったような暴挙をやった」などといってしまいました。吉本隆明はそれを執拗に罵倒し嘲笑しました。

確かに客観的にみれば、全共闘の乱暴狼藉がいかに酷かったとしても、それがユダヤ人を大量虐殺したナチスよりも酷い暴挙であるなどとはいえません。そういうことをいってしまう丸山眞男は事実どうかしています。けれども、だからといって、全共闘の学生連中がとりたてて何の意味も目的もなく丸山眞男の研究室をぶっ壊してしまうというようなことが善、正義などであるはずもありません。

吉本隆明のロジックでは、わけがわかりませんが、そういうことが戦後民主主義が欺瞞だから批判するとか否定するというような話になってしまいます。彼の意見では、丸山眞男の研究室に突入してきた暴力学生達は丸山眞男の教え子なのだから、教え子の行為には丸山眞男自身が責任があるとかいうことになります。丸山眞男自身が全共闘の学生達を育てたというのと同じ理屈で、全共闘そのものも戦後民主主義の「鬼子」だから、全共闘のラディカディズムが戦後民主主義を否定したりぶっ壊すのも当たり前だなどと考えてしまうことになります。

吉本隆明は『擬制の終焉』という本を書きましたが、「擬制」というのは耳慣れない特殊な日本語ですけれども、要するにfictionということです。もう少し敷衍しますと、偽善、欺瞞などということになります。「擬制」ということで吉本隆明が考えるのは特に戦後民主主義日本共産党です。吉本隆明は自分は本気で戦争をやり抜くと信じ込んでいた軍国少年を自称していますから、その彼からみれば、戦後多くの人々が簡単に「進歩的」になってしまったというようなことは呆れてしまうような虚偽だと思えたのです。そうはいっても、戦後民主主義日本共産党を否定する彼に何か積極的な意見があったというわけでもありません。彼は新左翼党派ですらありませんでした。デモなどに行くより自分の部屋で昼寝でもしているほうがましだ、それが彼のいう「自立」でしたが、別に吉本隆明がそのように考えてしまっても仕方がなかったし別に構わなかったでしょうが、しかし、膨大な学生運動家、左翼活動家がそういう吉本隆明に熱狂し彼を崇拝したというようなことはどうかしています。家で昼寝していればいいというような考えのどこが政治的なのでしょうか。

68-69年以降吉本隆明は左翼学生に頻繁に講演を依頼されるようになりました。それでもよかったのでしょうが、しかし、その講演会で失礼な発言をする学生などがいると、吉本隆明は壇上から降りてその人のところに行って殴りつけてしまいました。壇上から降りたらもう講師でも知識人でもないただの一個人だから殴ってもいいというような話ですが、ちょっとどうかしています。そういう吉本隆明が倫理的であるとか、知識人ぶっていないから偉いというふうに多くの人々が考えてしまったのはどうしようもないようなことでした。

若い頃、どういう考えでそういう無意味で絶望的なことをやったのか知りませんが、自滅的な労働運動を繰り返していたことと、60年安保で全学連と共に国会に突入したことを除けば、吉本隆明に政治的動機など一切何もありません。60年代後半から彼は自分が思想家であると考えるようになりましたが、全く何もしないのが深遠な思想なのだというようなどうしようもないことでした。谷川雁が炭鉱労働者の運動を組織していましたが、その谷川雁吉本隆明が言い放ったのは、「もっと深く絶望せよ」などというわけのわからぬ意見でした。

どうして吉本隆明谷川雁に「もっと深く絶望せよ」などというような非常に失礼なことをいってしまったのでしょうか。それはこういうことです。吉本隆明の考えでは、社会が進歩したり、世の中が経済的に豊かになっていきますと、「運動」が成立する余地がどんどんなくなってしまいます。社会運動はそれなりに大変なしんどいことでしょうが、充実感もあるでしょうから享楽もあるでしょう。運動がなくなってしまうということは享楽もなくなってしまうということです。吉本隆明谷川雁に言いたかったのは、君達のところにはまだ運動の享楽が残っているかもしれないが、しかしじきに確実になくなってしまうのだから、今のうちに味わっておけというようなことです。事実谷川雁が炭鉱労働者の運動を組織していたのだとしても、時代につれて、炭鉱労働が消滅し、炭鉱労働者が消滅してしまいますと、当たり前ですが、それを担う主体がいないのですから、炭鉱労働者の運動なども消滅してしまいます。吉本隆明はそういうことが炭鉱労働者の運動に限らず一般的にいえると考えました。

『「反核」異論』などを読みますと、吉本隆明が左翼や左翼運動を嫌っていただけではなく、市民主義者(リベラル)や市民運動も嫌っていたということがよく分かります。彼が筑紫哲也を罵倒し続けていたのは、彼にとっては筑紫哲也がどうしようもない欺瞞だったからですが、しかし、左翼運動だけではなく市民運動も大嫌いである、「反核」なども欺瞞だから嫌いであるということは、要するにありとあらゆる運動が大嫌いだというだけのことです。それこそ家で昼寝するほうがいいのだというような考えです。別にみんなが政治的でないといけないわけではないので、吉本隆明がそういう意見でもよかったでしょうが、左翼が吉本隆明を耽読したり、読書好きな人々が吉本隆明の思想は深遠だと思い込んだりするということには何の必要性も必然性もなかったはずです。

そういう全く非政治的な吉本隆明でしたから、彼が日本が豊かな消費社会になった80年代のポストモダンニューアカブームで人気者になってしまったのは、むしろ当たり前のことでした。彼は当時時代にマッチしていたのです。彼には左翼とかマルクス主義者、マルクス者とかは全くどうでもよくなり、超資本主義的とか超西欧的などというくだらないことを言い出しましたが、80年代の経済的繁栄や文化的爛熟が一時的な現象でしかないことは少しも見通せなかったし、バブル崩壊以降ありとあらゆる意味で日本の状況が悪化してしまったのだとしても、そのことへの有効な分析もアイディアも全く何一つありませんでした。

その後も吉本隆明は膨大な著書を粗製濫造し続けましたが、無意味でした。『わが「転向」』とかいう本も堂々と書いてしまいましたし、小泉純一郎内閣が成立したときには支持してしまいました。日本(小泉内閣)がアメリカのイラク攻撃を支持したときには、どうせならもっとアメリカに追従して利益を引き出したほうがいいなどというような非倫理的なしょうもないことを書いてしまいました。吉本隆明という人は最終的にはそういうところに到達してしまいました。