近況アップロード

NAMの事務局員すら、太田出版の落合さんや京都の西原さんのように、NAMそのものには懐疑的な人々が多かったと思いますし、柳原さんや杉原さんは柄谷さんの「キャラ」が好きであるというような人々でした。私はそれでも良かったと思います。内輪だけでやっているということなら柄谷ファンクラブということで構わなかったでしょう。でも、Qを作ってしまいました。Qを作ったということは、柄谷ファンではない一般人を地域通貨に勧誘するという意味になりますから、当然、NAMの人々には責任が生じます。杉原さんや私が、最終的には挫折してしまったのだとしても、こだわっていたのはそのことでした。他方、柄谷さんは自分やNAM(の人々)に政治的、道義的な責任があるかもしれないという考えを最後まで拒否しました。彼は、責任なら西部が一人で取ればいい、と言い続けていましたが、私にはそのようには考えられませんでした。

まあしかし、不愉快ですから、当時のそのようなことを思い出したくありません。それでもどうしても思い出してしまいますが。

そうはいっても、少し思い出話をしましょう。柄谷さんにも、自分の読者だけではNAMをやれないというくらいの現実認識はありました。だから、いろいろな左翼活動家の集まりに行ってNAMに参加してくれないかと頭を下げたそうです。基本的には無視されてしまったのでしょうが、それでも農業の田中さんや第三世界の小倉さんが入ってくれました。柄谷さんやNAMはそのような柄谷読者ではない人々をもっと大事にすべきだったと思うので、残念に思います。私は彼らには申し訳ないという感情があります。例えば小倉さんは、9.11のときの柄谷さんの発言に怒ってNAMをやめてしまいました。私は引き留めましたが、「男に二言はない」とかいわれてしまいました。

田中さんは人格者でしたし、理論的にも柔軟でした。NAM解散後も、田中さん、柳原さん、私で会いましたが、田中さんは自分には西部さんへの怨恨は一切ないといっていました。西部さんには100回死んでほしいという柳原さんには見習ってもらいたいものです。

田中さんはNAMの代表にまでなってくれましたが、そのことにNAM会員は感謝すべきだと思います。なぜなら、倉数さんをはじめみんないやがって降りてしまったようなポストだったからです。そのような役目を引き受けるのははっきりいえば損だったでしょうし、事実田中さんは過労で体を壊してしまいました。それなのにああいうしょうもないことになってしまって残念です。

田中さんが千葉の鴨川に住んでいるということくらいは知っていますが、彼に会いに行こうと思わないのは、恨みがあるからではなく、自分自身がとりたてて運動らしい運動もやっていないのに漠然と会いに行くというようなことが彼に済まないし、意味がないと考えるからです。

田中さんは人格者だといいましたが、それでもNAM末期の柄谷さんの乱暴狼藉には不愉快だったようです。それは当たり前です。貧乏くじだったかもしれませんが、それでも田中さんはNAMの代表という立場です。その田中さんを無視して勝手なことをされては困るでしょう。柄谷さんは「しょせんくじ引きで選ばれた代表のくせに偉そうに」とかいっていたそうですが、でも彼は、自分の読者だけではNAMをやれないから田中さんに頭を下げたはずです。それを忘れてしまったのでしょうか。多分、忘れてしまったのでしょう。

柄谷さんが自分のファンを集めただけなら、他人に迷惑が掛かるということでもないのでよかったでしょうが、現実にはいろいろな人々を巻き込んでしまいました。柄谷さんにせよNAMの人々にせよ、そのことに責任を感じないならば変です。私は個人的にそう思います。

NAMを経験して(ということはもちろん、泥沼のような紛争を経験して、という意味ですが)、私は理論とか倫理に懐疑的になりました。幾ら立派なことをいっても現実があのようなものではしょうもないではないか、というのが率直な感想です。

理論主義、理論偏重には悪い側面が一杯あると思います。例えば、柄谷さんはQの理論を考えたのは西部さんだから、西部さん個人が全責任を負うべきだという意見でしたが、私はおかしいと思います。Qの基本設計は西部さんかもしれませんが、その具体化は私を含めてNAMの人々がみんなでやったのですから、共同責任だと考えるのが普通ではないでしょうか。西部さんが理論家だから彼一人が全部悪いという柄谷さんの考え方そのものが私には理解できません。

それから杉原さんにしても、彼にとっては理論がすべてでした。その理論というのも非常に狭いのです。彼が理論ということで指すのは特に経済学です。それもマルクス、『資本論』、価値形態論、というふうにどんどん狭くなってしまいます。そういうふうに純化したロジックで現実を斬れると考えてしまうことが疑問ですし、それこそ十年前から彼と私では考え方に大きな違いがありました。私には杉原さんのように考えられませんでしたし、そもそもそれほど経済学にくわしいわけでもなかったのです。

理論の話からは離れますが、西部さんや鎌田さんにいわせれば、その杉原さんは汚らわしい人間だというような話になってしまいます。実際、私がQをやめてしまってから後も随分、対立や遺恨があったのでしょうが、そういう人格誹謗のようなことになるのは残念です。でも鎌田さんからは私自身も「人間の屑」とか言われてしまいました。彼らはNAMの人々全員が嫌いなのでしょうし、それは致し方がないのでしょう。

けれども私からみれば、杉原さんは汚らわしいというよりも、自己犠牲的な人です。まるでNAMの全責任は自分が背負うのだというような感じで痛々しいというふうに思っていました。柄谷さんが、Qは赤軍的で自己犠牲的だから駄目だ、とかいったときに、杉原さんは、自分こそそういう人間であった、と謝罪したのですが、そういうメールを見ていて可哀想だと思ってしまいました。汚らわしいというよりも倫理的でしょうが、そのような意味で倫理的である必要があったのでしょうか。私には分かりません。

杉原さんが抜本的改革委員会に参加するために上京したときに会いましたが、彼は攝津さんは早く彼氏でも探して幸せになったほうがいい、というような感じでした。多分私が現在の紛争に関わってもしょうもないし、NAMの全責任は杉原さん自身が負うのだという意識だったのでしょう。それはなるほど立派なことだと思います。でもなんでも自分一人で背負う必要はなかったのではないでしょうか。

凡庸な意見かもしれませんが、私はNAMにせよQにせよ共同責任だと思います。誰か特定の人に全責任があるというような話とは違うと考えます。それは複数の意見が異なる人々が一緒にやったことなのですから、当然ではないのでしょうか。

柄谷さんがQは赤軍だとかいい、杉原さんが謝罪するというようなやりとりを見ていて、私は漠然と本当にNAMはこれでおしまいだと感じていました。

でもそういうことからももう十年経ってしまいました。杉原さんが今何を考え何をしているのか知りません。多分、太極拳をやっているのでしょう。今彼がやっていることを調べようという気持ちも特にありません。

杉原さんが柄谷さんのキャラが好きだったというのは、柄谷さんに特異な感受性や考え方の癖が面白いからそれを受け入れていた、というようなことです。それはそれでいいと思います。でも、後年、そのことで杉原さん自身が困ってしまいました。Qの京都オフ会で柄谷さんが宮地さんを誹謗したけれども、宮地さんが本当に権力志向なのかどうかは疑わしい、というようなことを杉原さんが一所懸命説明したら、柄谷さんは、実は自分は、不在の宮地さん、穂積さんを批判するふりをして西部さんを批判したのだ、とか言い出し、杉原さんは困惑し、さらに自分の能力に絶望して(そういう必要はなかったと思いますが)規約委員会をやめてしまいました。でもそれは、柄谷さんのいうことのほうが客観的にいっておかしいし、そういうことをいわれて困惑する杉原さんのほうがまともだと感じます。

柄谷さんの特異性といっても、要するに文芸批評家としてのモードをNAMにまで持ち込んでしまったということだと思います。例えば、資料を客観的に吟味せずに、ただの直感で判断してしまい、しかもそのことが絶対に正しいと思い込むとかです。文芸批評だったらそういうことも自由でしょうが、NAMでそのように振る舞われては困ってしまいます。

例えば、Qの京都オフ会で、柄谷さんは、後藤さんのほうが宮地さんよりも信頼できる人間だということは俺には一目で分かる、とかいって、その場で後藤さんのことを全面的に支持しました。そのことには当の後藤さんが驚いてしまったほどでした。けれども、何の根拠もありませんでした。ちょっとびっくりしますが、面倒臭いという理由でQのメールを一切読まずにオフ会にやってきて、自分の直感で全部断定してしまったというようなことなのです。もちろん、我々(柄谷さん以外の全員)はあらかじめの資料をそれぞれ吟味検討したうえでそのオフ会に参加していたのですが、柄谷さんだけはそういう努力、つまり、資料を客観的に検討しようという努力をするつもりがそもそもありませんでした。でも、どうしてそんなに直感が正しいと思えてしまうのか、私のような凡庸な人間にはわけが分かりません。たとえ酔っ払って俺は神だとか吼えていたとしても、それでもやはり柄谷さんだって神ではないでしょう。一目見ただけで何でも分かってしまう、とかいうことがあるはずもないというのが常識的な判断だろうと思います。けれどもそういう柄谷さんを支持してしまう柳原さんのような人々が多かったというのが本当に絶望的なことでした。

それから話が飛躍しますが、NAM末期にはすっかり混乱が続いて、この人がこんなことまで言うのか、というような意味不明な状況になってしまったのはとても残念でした。普通に常識的に判断していればそれで良かったと思うんですけれどもね。私個人は。でもそう考えない人々が多かった、というようなことです。

今私が余り他人に関わるつもりになれないのは、人は普段は普通ですが(当たり前です)、危機、紛争、例外状況になると変わってしまう、変貌してしまうというような生々しい感触があるからです。そういうことを一杯目撃したので、私はますます人間嫌いになってしまいました。

夏目漱石の『こころ』の「先生」は、金銭と恋愛で人間が変わってしまう、彼の表現では「動く」というような認識でしたが、NAMの紛争には金銭も恋愛も関係がありませんでした。ではどうして、NAMの人々があれほどまでに見苦しく動いてしまった、変わってしまったのかというのは不思議ですが、多分人間を動かしてしまうのは金銭や恋愛だけではないというようなことなのでしょう。でも、では何だったのかというと、全く分かりません。

私にはよく理解できませんが(というのは、一般社会ではなくNAMのような場所で成り上がってもしょうがないだろうと思うからですが)、混乱に乗じて成り上がろう、偉くなろうというような人々もいて、呆れてしまいました。

NAMを刷新したい、というような欲望に駆られた人々には、私を含めてそれまでの事務局の人々が古臭く見えました。だからリストラしてしまう、というような発想になったわけですが、正直よく分かりません。それなりに一所懸命組織を建設したと思いますが、組織ができたら今度はぶっ壊してやり直す、ということではそれこそ循環、反復(それも、とりたてて意味がないような)になってしまうのではないでしょうか。

森谷さんという女性がいっていたのは、大阪のスペースAKとの紛争のときは、組織が未熟だったからというような話でした。でも、それなりに組織のかたちを整えますと、それが形式的で窮屈だとか官僚主義だとかいって破壊してしまうのでは一体何なのか、というような疑問ですが、彼女がそのように感じたのは当然だと思います。彼女はスペースAKともとても近い人でしたから、そもそもスペースAKを柄谷さんがNAM代表として暴力的に排除したことそのものに疑問を持っていました。それが今度はQや、NAM事務局そのものを解体するというような話ですから、だったら何のためにスペースAKが犠牲になったのか、と不条理を感じても当然です。

森谷さんがいっていたのは、Qの人々は大変な苦労をしてきたのに、柄谷さんがメール一本で全否定してしまい排除するのは余りに傲慢であるというようなことですが、それは森谷さんのいう通りだと私も思います。

それから関係がありませんが、こういう奇妙な経緯がありました。規約委員会(元老院のようなものを考えていただければ妥当です)には、代表経験者や知識的な人々のほかに、事務局の事務局長、副事務局長が入るという慣例がありました。私は倉数さんの事務局で副事務局長でしたが、どういうわけだか私だけ規約委員会に入れて貰えなかったのです。もちろん事務局員はNAMのあらゆるメールを読むことができるので、とりたてて困りませんでしたが、どうして自分だけが、という不条理な感じを当時から抱いていました。そういうからといって、私が自分が副事務局長であったから偉いとか幹部だなどと思い上がっていたというような話でもありません。私の場合だけ慣例が無視されてしまったという理由が全く不明なのです。多分、NAM組織の運営といっても実態はかなりルーズ、恣意的であったのでしょう。

規約委員会ではNAMの「精神」を保持するというようなことだったのですが、余り意味がよく分かりません。柄谷さんなりに、十全に言語化できてはいないけれども、漠然とこうあるべきだというような理想のイメージがあり、それを忘れないために保存するための場所として規約委員会を設置したのでしょう。けれども、精神とかいっても、私には不明です。柄谷さんやNAMの幹部の人々が、NAMの原理とかNAMの理論といった言説で、言葉で明確に表現されたもの以上の何かを想定していたということだけは確実なのでしょう。仏教に喩えれば、密教のようなものでしょうか。まあ、NAMの良くなかったところは、どんどん○○委員会、とかを増やしてしまい、評議会が正式の意思決定機関だという建前をなし崩しにしてしまったというようなことだと思いますが。評議会の人々は別に普通の人々ですが、柄谷さんにはどうしてもそういう一般の人々を信用し切れない面があったと思います。だから知識人が「精神」を保持する、というような発想になってしまったのでしょう。

多分私が規約委員会に入れなかったのは危ない人だと思われてしまったからだと思います。9.11のときに私が精神病で倒れたときがありました。そうしますと、当時事務局長だった杉原さんが、柄谷さんに、攝津さんが倒れたそうですけど、とか言ったそうです(これはMLではなく対面の会話です)。柄谷さんは、「ビョーキの奴は気にするな」と答えたので、杉原さんが「でも柄谷さんだって病気じゃないですか」と言うと、柄谷さんは、「俺は漢字の『病気』だ。攝津はカタカナの『ビョーキ』だ」、だから違うのだと平然と言ったそうですが、私には何が何だかわけが分かりません。

なるほど私が十年経ってもNAMのことを記憶しているというのはカタカナのビョーキ、もっとはっきりいえば倒錯的なことだとはいえるかもしれません。でも私個人は、そのような人も必要ではないかと思います。もし、全員が忘れたならば、NAMそのものが存在しなかったのと同じになってしまいます。NAMそのものが、早々と「第二の死」(=忘却)を迎えるということになります。そうならないために私個人は覚えている、記憶しているということだと思います。

NAM資産管理委員会というものがありましたが、私の意見では、NAMの資産というものは、金銭ではなく(それすらももう、散逸してしまいましたが)、過去ログということですらなく、記憶の総体だと思います。それは委員会が管理するような性質のものではないでしょう。個々人がそれぞれに経験を覚えているというだけのことです。

ですからそのような体験、記憶の束というのは、個々人によって随分違います。例えば杉原さんが経験し経過したNAMと私のそれでは全く違うはずです。そもそも見え方が違うと思います。