近況アップデート

松本零士のSF漫画『ミライザーバン』を考えたいと思います。これに限らず松本零士の漫画には考えさせられるものが多いです。私は手塚治虫から永井豪あたりまでの世代の戦後の漫画家の作品を特に好みます。彼らの作品には明確な思想があったと思います。手塚治虫の『ムウ(MW)』であれ永井豪の『デビルマン』であれはっきりとした考え方がありました。松本零士の『銀河鉄道999』であれ『ミライザーバン』も同じです。『ミライザーバン』では「時の輪」、循環が問題になります。もし本当に時間が循環(円環)であり、全てが繰り返しに過ぎないならば、それはとんでもなく無意味なのではないのかというようなことです。

ミライザーバン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%B3

MW
http://ja.wikipedia.org/wiki/MW_(%E6%BC%AB%E7%94%BB)

時間が循環であろうとなかろうと、通常人は一度きりの生しか生きることができません。けれどもこの漫画の主人公であるミライザーバンには時間を旅する、時間を往き来する能力があります。そうしますと、もし時間が循環をなし、円環をなしているとすれば、その彼にとってはどこまでいっても全く同じ経験、同じ歴史を無限に反復するだけだということになります。それは恐ろしく退屈で不毛です。それで、結局そういうことになっているのかどうかが探究されますが、結論としては主人公は、時間性というものは無数の環が複雑に絡み合っているものだという認識に到達します。そうしますと、同じ歴史が果てしなく繰り返されるだけという単調なことにはなりません。歴史が同じような要素から成り立っているということは変わらないのだとしても、その組み合わせは毎回変わるし一度きりだということになります。

手塚治虫の『ムウ(MW)』について一言だけいえば、それは同性愛の問題ではなく悪の問題です。詳細は忘れましたが、飛行機が無人島に墜落したのか不時着したのか、数名の少年達が取り残されます。それで、年長の少年達が年少の少年を犯してしまいます。成長して後、年長の少年達の一人はかつての自分の罪を悔いてキリスト教に入信し神父になります。犯された少年のほうは何らかの原因で(毒ガスだったでしょうか)器質的に脳をやられてしまい、善悪の区別や良心などがなくなってしまいます。だから彼は犯罪者、テロリストになってしまい、残酷に他人を傷付けたり殺したりするようになります。そして犯罪を重ねるたびにかつて自分を犯した神父のところに告白、告解に行きます。そのことに神父のほうは非常に悩みます。彼には神父としての職業倫理からして、告解で話された内容を警察に通報することはどうしてもできませんし、かつてその人に性的な暴力を加えてしまったのだということへの罪の意識もあります。けれども、犯罪者になってしまった人は数限りなく犯罪や殺人を犯してしまいます。神父は悩んだ挙句、飛行機のなかで犯罪者になった人を殺害して自分も死ぬということで決着を付けようとします。けれども物語の最後になってみて、結局神父が考えたようになったのかどうかはっきりとしません。犯罪者になった人には瓜二つの似た人物がいました。死んだのが犯罪者になった人なのか似た人だったのか結局分かりません。もし犯罪者になった人が生き残ったのであれば、もう神父は死にましたから、その犯罪や殺人を止める人はもう誰もいません。そういう結末です。