近況アップデート

ウラディミール・ホロヴィッツアルトゥーロ・トスカニーニ指揮のNBC交響楽団と共演したブラームスのピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83を聴いています。1940年5月9日のカーネギー・ホールでのライヴ録音です。カップリングはブラームスの間奏曲 変ロ短調 作品117の2、シューネルトの即興曲 D.899の3 ト長調(原曲:変ト長調)、リストの泉のほとりで〜巡礼の年 第1年「スイス」第4曲、ペトラルカのソネット第104番〜巡礼の年 第2年「イタリア」第5曲、ハンガリー狂詩曲 第2番です。ホロヴィッツトスカニーニと共演したチャイコフスキーは良くない、オーケストラとピアノがずれてしまっている、と言いましたが、ブラームスのピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83とかベートーヴェンのピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」においては彼らはうまくやっています。けれどもブラームスならばバックハウスベームと共演した録音のほうがいいし、「皇帝」ならばルービンシュタインバレンボイムと共演した録音のほうがいいと思います。何であれホロヴィッツが一番最高に素晴らしいというわけでもないのです。

橋本治を検討しますが、順番にやっていきます。まず、「ブルーベリー邪夢と少年売春」からです。どんな雑誌であったのか知りませんし興味もないですが、『ぱふ』1979年6月号に掲載され、『極楽迄ハ何哩』に収録されました。『極楽迄ハ何哩』は1983年5月に河出書房新社から単行本として出版され、1987年4月15日に徳間文庫になりました。私はその文庫で持っています。

今読んで『極楽迄ハ何哩』が面白いかというと少しも面白くありません。実につまらないと思います。けれども「ブルーベリー邪夢と少年売春」は考えてみる価値があると思います。

「ブルーベリー邪夢と少年売春」というのはどういう話なのでしょうか。まず、語り手である「わたし」「ぼく」が「ブルーベリー邪夢」です。彼は少年であり、同性相手に売春をしています。これはその彼と、客である「ドクター」、本名は「道端譲」だということになっていますが、その二人の関わりについてのお話です。

少し驚きますが、「ブルーベリー邪夢」はなんと中学生です。中学生の少年が体を売り、それを買ってしまう中年男がいます(「ドクター」)。中年男には家庭があり、「家庭崩壊」を恐れています(でもだったら、少年買春などしなければいいのではないでしょうか)。

中学生である「ブルーベリー邪夢」が「ドクター」に言いたいことというのは実はひとつしかありません。それは、「洞察力おとる!」ということです。「わたしその時思ったわ。原因でも結果でも、どっちにしろいつも自分の外側に発見できる人なのね、ドクターは。」

「ドクター」は告白すると不幸になると思っているので告白をすることができません(「そうだ 不幸だ 不幸だ / 不幸がこわかったのだ」)。それに対して「ブルーベリー邪夢」はこう言います。「ドクターがこわいのは不幸なんかじゃない、今の自分がこわされちゃうのがこわいんだ。今まで自分がやって来た、過去の時間が全部どっかに消えてなくなっちゃうのがこわいんだ。」

さて、「ドクター」は「ブルーベリー邪夢」のところに「貯金通帳」を持って来てしまい、「二百万円のお金」を渡します。けれどもそれは少年を悲しませるだけです(「ドクターの家庭って、二百万円の貯金がなくなっただけで崩壊しちゃうの? ドクターの"不幸になれ"って、二百万円のお金をドブに捨てることだったの? かさを渡せなかった自分が二百万円の貯金通帳を渡せるようになるってことが、ドクターの大人になることだったの? ぼくは悲しいな。」)。

「誰も、人に「裸になれ」なんていう権利はないんだよ。でもぼくはなってあげたんだよ。ドクターは裸になったことがないから、それがどんなに大変なことかわからないんだよネ。人が裸になったの見て、それで「アア、そうか、むこうが誘うからいいんだな」って、やっと裸になるんだよネ。」

「ドクター、そんなにエライの? ドクターはただ歳とってるだけだよ。ぼくがわざわざ裸になってあげただけだよ。どんなにぼくが傷ついたかなんて、そんなこと全然考えてなんか、くれやしないんだネ。ネ、ドクター。」

「洞察力、おとる!」

「自分がそうなら、他人もそうかもしれないんだよ。」

まあ大体、全体がそういう感じなのですが、1979年の日本を想像してみるとしても、そもそもそういう中学生がいたのかどうか疑問ですし、仮にいたとしてもこのように明確な言葉で表現することはできなかっただろうとは思います。別に優れた文章とも思いませんが、同性愛の世界を考えますと、こういうことがあってもおかしくないとは思います。少年と男の関係は非対称的で一方的であり、対等とか公平という印象がありません。倫理がない感じがします。「ドクター」はそのことに気付かず、ただ少年に金を渡しさえすればいい(そうすれば、自分の家庭も守ることができる)と思っています。だから少年は彼を軽蔑して「ただ歳とってるだけ」だというのです。

そうはいっても少年は体を売っており、「ドクター」はその客であるというだけです。ですから、どことなく奇妙な印象があります。単に売買春の関係に倫理や人間性を求めても意味がないのではないか、とか思います。それは同性愛であれ異性愛であれ同じでしょう。もちろんセックス・ワークも権利として認められるべきでしょうし、そのような労働者の人権も保障されるべきでしょう。けれども「ブルーベリー邪夢」が執拗に言い続けているのはそういう問題でもありません。よく分かりませんが、何か倫理的な動機に非常にこだわっているということだけは理解できます。

この文章だけではなく『極楽迄ハ何哩』全体でそうですが、当時の橋本治は「少年愛ブーム」を激しく嫌悪し攻撃しています。多分彼の考えでは、少年愛などといっても実態はこの程度の非倫理的なものでしかないのだ、というようなことだったのではないでしょうか。そのようなものを美化したり崇めることが心底馬鹿らしいと考えたのではないでしょうか。それから、こういうくだりも参考になります。「大人になるということは、かつて無力な子供だったことをしつこく忘れず、いつかパワーアップして十万馬力の子供になってやる! と決心することと同じです。そして不完全だった子供が完全な子供になった時、それを大人になったと言い、不完全な子供が中途半端な大人になって平然としている時、それを、人は「年をとった」と呼ぶのです。」(『子供に、なる』)──「不完全な子供が中途半端な大人になって平然としている時、それを、人は「年をとった」と呼ぶ」というのは、「ブルーベリー邪夢」が彼の客に「ドクターはただ歳とってるだけだよ。」と言うことを想起させます。なるほど橋本治がいっているような意味で、「ドクター」はただ「年をとった」だけの人間、不完全な子供が中途半端な大人になって平然としているような人間であるといえるでしょう。しかし、それでも疑問があります。そのようなことをいうならば、世の中の大人の大多数が「中途半端」だというしかないのではないでしょうか。

どうして1970年代末の橋本治がそのようなことを執拗に考え、そのような文章を書いたのかは分かりません。彼なりに何か具体的に同性愛なり少年愛について知っていることがあったのは確実でしょう。そこからみると世の中の「少年愛ブーム」は軽薄にみえるし、現実の同性愛の男達は倫理も勇気もない「中途半端な大人」にみえてしまう、そういうことであったのでしょう。「ブルーベリー邪夢」が何に腹を立てているのかよく分かりませんが、とにかく腹を立てています。彼は自分の体を売ったが実は売っていない、人間の体は売れるようなものではない、「ドクター」はそのことで決定的な思い違いをした、と言い続けています。自分は「だいていいわよ」とは言ったが「だかれたい」とは言っていないともいいます。どうしてそのような細部にこだわってしまうのかよく分かりません。それがその少年にとっては大事なことだということだけは分かります。しかし本当はどういうことであるのか、読者に客観的に理解できません。

極楽迄ハ何哩(ナンマイル) (徳間文庫)

極楽迄ハ何哩(ナンマイル) (徳間文庫)