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さて、アントニオ・ネグリスピノザとわたしたち』(信友建志訳、水声社)を少し検討してみましょう。

(1) ネグリドゥルーズがそう言ったと書いていますが、「ひとたび神という幻影からすっぱり手を切ってしまえば、無限というものはわれわれのなかで欲望と現実の一致するところに一致するところに実現されるだろう」(p.19)とのことですが、アルチュセールドゥルーズネグリなら神と手を切ることができてしまうのでしょうが、スピノザがそうであったとは考えられません。スピノザにとって、神は、絶対無限の実体でしたが、ドゥルーズネグリがいうのは、「神という幻影」を取り除けば無限という観念だけが残りますから、それが彼らなりの無神論だというようなことです。でもそれはドゥルーズネグリの考えであって、スピノザの考えではありません。

(2) 「かれが契約論のなにを軽蔑していたかというと、それはかれが啓蒙主義唯物論のなかで軽蔑していたであろうものと同じだろう──というのも、スピノザ唯物論は18世紀思想の個体主義者、機械論者や物理主義者の不快な唯物論とはまったく関係がないからである。スピノザ唯物論はむしろそれらよりもずっと、ベーコンの唯物論の生きいきとした力と関連が深い。あるいは、マキアヴェッリガリレオのまだ人文主義的な唯物論に。それだけだ。それ以上ではない。」(p.39)──私はこのようなネグリを否定します。機械論、物理主義、実証主義を離れて唯物論などないと思います。なるほどベーコンは近代思想の父かもしれませんし、左翼や唯物論者の学者でデカルトよりもむしろベーコンを重視したい人は多いですが、事実をいえば近代科学の総体はベーコンの壮大な構想から出てきたわけではありません。デカルトの数学的自然学、普遍数学の構想が決定的だったのです。そして私が知る限りマキアヴェッリ唯物論であろうと何だろうと形而上学的、存在論的な思弁を展開したことなどありません。そして、ガリレオは単に物理学者であり、それはただそれだけのことです。ですからネグリの主張は成立しません。

ネグリは18-19世紀の唯物論は特殊であるといって否定しますが、その彼が唯物論であると考えているのは、ソクラテス以前の自然哲学者の物活論、エピクロスルクレティウスの自然哲学、後期スコラ学のアリストテレス主義、近代思想黎明期のヨーロッパの人文主義、はっきりといえばルネッサンス思想、ブルーノのようなものです。私は、そのようなものをいきなり復活させてしまうのはおかしいと個人的に思います。確かに昔のスターリン主義の「弁証法唯物論」も変だったかもしれませんが、現在ネグリが主張しているものも相当変だというのは間違いありません。

唯物論のことは少し慎重に吟味しなければなりませんが、それはまた後ほど言及します。

(3) ネグリスピノザの「力能」と「権力」を区別します。そのような区別が妥当なのかがそもそも疑問ですが、それだけではなく、ネグリはそれを勝手にフーコーの「生政治」と「生権力」の対比に結合してしまいます。もちろんフーコーにはそんな考えは全くありません。ですから、こういうことになってしまいます。「結果として、力能(存在論的な意味で創造的)と権力(寄生的)のあいだに絶対的な二律背反が導かれることになる。」(p.49)──もちろん私はネグリのような「絶対的な二律背反」が導かれてしまうようなことなどないと考えます。

ネグリスピノザ社会学的思想のフーコー的定義は逆説的だが可能だとかいいます(p.159)。私はそう考えません。さすがに彼にしても、フーコーがほとんどスピノザを参照していないのだという端的な事実を認めないわけにはいきません。なるほど確かに、フーコーは、抵抗の源泉は身体であるとは言いました。でも「身体」に関する一見深遠そうな、けれども内実は全く空疎な形而上学的思弁を一切展開していません。むしろそのようなくだらないことを拒否しています。フーコーが身体と言ったのは、まさにそのような大仰な形而上学を拒否するためだったのに、ネグリにはそのことが理解できません。

私が絶対に確実だと思うのは、「民主制とは、愛の行為なのです。」(p.163)というようなくだらないことをフーコーであったならば決して言わなかっただろうし認めなかっただろうということだけです。

スピノザとわたしたち

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