近況アップデート

ふたつ言い落としたことがありますので、書いておきましょう。まず、LETSでは「ゼロサム原理」が成り立つからLETSは資本に転化することのない貨幣である、故にLETSで資本主義を揚棄できるというような理屈に反対した人々がいたけれども、柄谷さんや西部さんが彼らを「論破」してしまったということに関連してです。少し考えてみれば、西部さんのいうことがおかしいのが分かります。西部さんの主張はLETSが全面化しなければ成り立たないのです。もし人々が少し地域貨幣を使うようになるとしても、しかし主要には国民通貨、円を使い続けるのであれば(現実をいえば、そうであるよりほかないと思いますが)、貨幣の資本への転化を抑制することなどまったくできないし、資本主義を揚棄することなどまったくできません。そのような当たり前のことがどうして西部さんに分からなかったのか理解できません。西部さんが『批評空間』誌に投稿した『LETS論』も同じで、私にはどうしてこのようなくだらないものが掲載されたのか分かりません。当時柄谷さんが西部さんに甘かったということ以外考えられません。

西部さんが『LETS論』で展開しているのは「LETS商品ライセンス」とかいうアイディアなのですが、素人が読んでもこんなことはあるはずがないとすぐ分かる程度の馬鹿げた夢想に過ぎません。それはこういう話です。あらゆる商品、正確にいえば「モノ・サーヴィス」に一定割合をLETSで決済しなければならないと義務づけます。そしてそのようなLETS商品から作られた商品もまたLETS商品でなければなりません。そして、LETS商品である米、肉、野菜などを食べて自らの身体を再生産している労働者がいるとしますと、彼自身が労働力商品としてLETS商品にならなければならないというくだらない理屈になります。そうしますと、賃労働商品が廃棄されますので、資本主義が揚棄されることになるのだという理屈ですが、そんな話を誰が信じるのでしょうか。西部さんは私のことを誇大妄想だと非難しましたが、誇大妄想なのはどちらでしょうか。

もう一つは、「産業連関内包説」についてです。日本で地道に地域通貨を実践していた人々の大多数は、西部さんや宮地さんのような、LETS-Qが「強い貨幣」になるとか、産業連関、産業構造に深く浸透して経済社会を根底的に変えてしまうというような考えに反対でした。だから西部さんがカフェスローで講演したときの質疑応答で論争になってしまったのです。

西部さんの言っていたことを要約するとこうなります。もちろん、地域貨幣、Qが第二次産業、鉱工業にいきなり浸透するなどということは困難だしできません。けれども西部さんは、第三次産業、サーヴィス業からなら産業連関に入っていくことができると考えました。それからQが第一次産業に普及することも十分可能だと考えました。実際Qで米を売っていた有機農家もいましたので、別に誤りではないでしょう。そして最終的には第二次産業も含めて産業連関の総体を地域貨幣が包摂できる、これが西部さんや宮地さんの壮大な(しかし、妄想としか言いようがないような)構想でした。

西部さんの屁理屈は地域貨幣が全面化しなければ成立しません。彼は地域貨幣は東洋医学代替医療のようなものだから性急に誇大妄想を抱くべきではないと言いましたが、現実をいえば、商品、或いは「モノ・サーヴィス」の代金の10%を地域貨幣で支払ってもそんなことには意味がありません。『日本精神分析』に収録されている『市民通貨小さな王国』という論文で柄谷さんは、かつて自分が絶讚した(そして大阪で山住さんという教育学者と「ニュースクール」を立ち上げたときにおおいに参考にした)村上龍の『希望の国エクソダス』をぼろくそに貶してやっつけてしまい、Qを称賛しています。私はそれが出版された当時、読んで驚愕しました。柄谷さんが語っているのはどこをどう読んでも現実の・実際のQではあり得なかったからです。

柄谷さんに「啓蒙」のことなど少しも分かっていなかったと思いますが、彼が語っていたのは「啓蒙」の否定です。実は後にQを滅ぼすときもまったく同じロジックでした。これは彼の持論、信念なのです。

例えば環境問題で他人を啓蒙している活動家がいるとします。実際そういう人は多いでしょう。柄谷さんの意見では、そのようなことになんの意味もありません。Qに入るべきだというのです。それこそが環境問題その他への解であるとか言っていたわけですが、柄谷さんが語っているそのQを熱心にやっていた私自身からみても、そのような言論は妄想以外のものではないとしか考えられませんでした。

もちろんQがいきなり拡大することなどあり得ません。そのようなことは柄谷さんにも少しは理解できました。けれども当時の彼にとっては、経済活動のごく一部分、たとえ「10%」であったとしても、地域貨幣に取り換えることができれば、それが「市民通貨小さな王国」であったのです。

Qの実際の取引を個別に具体的に分析すれば、そのような考えが妄想であることがはっきり分かります。実際、山城さんという批評家がいますが、彼は地域通貨にそれほど興味などない人でしたが、真面目でしたので、Qのソフトウェアで取引履歴が公開されていましたので(何しろプライヴァシーを否定してしまったわけですから)、分析してみた結果、山城さんの表現ではQは「資本主義の周縁的(マージナル)な部分」でしか流通していないという自明な結論に到達してしまいました。実は柄谷さん自身も後に同様の結論に到達しました。だからQを妄想とか赤軍とかいって否定してしまうようになったのです。けれども現実のQに目を向けることなく妄想的な言論、「啓蒙などせずQに入れ」などを垂れ流していたのは柄谷さんただ一人でした。自分で実際にQをやってみた人々は、Qが柄谷さんのいうようなものではないということなどとっくに承知していました。

柄谷さんは当時、ちょこっとエコな人々などに人気者でしたので、文芸誌だけでなく『ソトコト』のような雑誌にもエッセイを書いていました。そのなかに『世界を変えるのは実は簡単なことだったんだ』とかいう傲慢な題名の実にくだらない文章があります。そこで柄谷さんが言っているのは、日本経済の10%を地域貨幣に取り換えることができれば社会は劇的に変化するのだというようなわけのわからぬ希望でしたが、そもそも経済活動の10%が地域貨幣になることなどないし、どうして「10%」を超えれば社会が変わるのかという点に関する説得的な説明も根拠づけもまったく何もありません。ただ彼が漠然とそう感じていたのだというだけの話だったのです。その後、当たり前のことですが、世界変革はそれほど「簡単」なことではないということが分かりました。

Qの現実をみればそのようなことはあり得ません。それはこういうことです。具体的な生産者、何でもいいのですが例えば有機農家がQに入ってくるとします。けれども当然のことですが、自分の米を100%地域貨幣で売ってしまっては、その人は現実に生活していくことができません。だから、代金の10%をLETSで受け取るというような話になります。実際にはそのようなことしか可能ではありません。そうすると、そのようなことは、生産者にとって、消費者にとって、果たして有利なことなのでしょうか。或いは、意味があることなのでしょうか。生産者にとっては、それは、ちょっとした販売促進といった程度の意味しかありません。つまり、地域通貨の会員、その共同体の成員に自分のモノ・サーヴィスをアッピールできるというだけの効果しかありません。消費者にとって、代金の10%が地域貨幣だとしても、それは世の中の「割引」程度の意味合いすらありません。その意味は、ただ単にシンボリックなものでしかありません。もっといえば、自分は倫理的経済に関わっているのだという気休めという意味しかありません。