『解離の構造 私の変容と〈むすび〉の治療論』岩崎学術出版社、p.225-226.

背後の空間にはかつての虐待の記憶をひとりで包み込んでいる犠牲者人格がいる。このような人格は「生存者としての私」にとっていわば身代わりの役割をしている。交代人格の起源のひとつにこの身代わりをみることができる。危機に陥った共同体が生き延びるために身代わりの山羊(scapegoat)を作り出すのと同じように、個人においても心の一部分を犠牲にして危機状況を乗り切ることがある。解離において心は個としての凝集性が減弱化しており、あたかも共同体ないしは集合体のような動きをすることがある。

虐待から交代人格の発生までをたどってみよう。まず危機的な状況が私に襲いかかる。私はそのような事態を回避し、秩序を回復するためにある種の防衛を発動させる。危機的事態を受けるのを私の一部分に身代わりとして限定し、それを切り離すことによって私は生体としての秩序を回復しようとする。身代わり部分は外傷の記憶を刻みつけられるとともに、日常的な時間・空間の流れから切り離され、外傷記憶は癒されることなくそこに凍結される。生き残った部分は自らの後ろめたさを防衛するために、身代わり部分が外傷の事態を招いたという認識を強化し、また身代わり人格自身もそのように信じ込むようになる。罪悪感の発生である。このように虐待や外傷という事態に対して自らの心を切り離し、その原因の多くを自らの魂の一部に押し付けることによって生き延びようとする。これが「生存者としての私」と「犠牲者としての私」の発生する原的光景である。

切り離された「犠牲者としての私」は外傷記憶をひとりで抱え込み、交代人格の核となる。「生存者としての私」はその外傷の出来事を当事者ではなく観察者として記憶する。そこには「犠牲者としての私」が抱え込んでいる苦痛はない。

「犠牲者としての私」から発展した交代人格はさまざまな感情を抱え込んでいる。幼い子ども人格はイジメや虐待のために孤独にさらされ、愛着欲求を満たすことができなかった。その結果、甘えの欲求とともに怨みを募らせるようになる。別の交代人格は虐待がある度に現実世界へ呼び出され、あたかも虐待を受ける役割を押し付けられているように感じ、強い苛立ちを感じている。攻撃的な迫害者人格は過去の凄惨な外傷記憶から怨みを募らせ、「生存者としての私」に対して強い攻撃性を秘めている。また外傷体験を自ら招いたという罪悪感や絶望感に打ちひしがれ、強い自殺願望を持っている交代人格もいる。これらの交代人格の起源は「犠牲者としての私」と考えることができる。

交代人格の多くは共通して身代りという属性を持っているがゆえに、本来患者にとって感謝されるべき存在としてある。「生存者としての私」は、苦悩が人格全体に波及しないように、身代わり人格がひとりで辛い体験を抱え込んでくれていたことをねぎらい、生き延びたという自らの負い目を解消する必要がある。治療者は「身代わり人格のおかげで患者が生き延びてこられた」という理解を患者に言葉で伝える必要がある。この言葉を聞いて患者の中で身代り人格が動き始める。身代り人格はその存在意義を認められ、苦悩の記憶を全体で分かち合う可能性へと眼を開く。これにより止まっていた時間が動き出す。このようにして身代わり人格はみずからの尊厳を回復し、誤った罪悪感を解消する必要がある。