読むにも耐えず売れもしない作品(神経症という病気)

おはようございます。

神経症は次善の策だ。《健康》に対してではなく、バタイユのいう《不可能》との関連においてである(《神経症は不可能の深奥に対する小心な怖れである》、等々)。しかし、この次善の策が書くこと(そして、読むこと)を可能にする唯一の手段なのだ。そこで、次のような逆説に辿りつく。バタイユの──あるいは、他の作家たちの──テクストのように、狂気の中で、神経症に抗して書かれたテクストも、読まれようとするならば、それ自身の中に、読者を誘惑するに必要な神経症を少しは宿しているものだ。これらの恐るべきテクストもやはりコケティッシュなテクストなのである。」「だから、作家は皆、次のようにいうだろう。狂気にはなれず、健康にはならず、われは神経症。」(ロラン・バルト『テクストの快楽』沢崎浩平訳、みすず書房、p.10-11.)

これはドゥルーズガタリへの批判だと思いました。彼らのように、神経症者を罵倒して分裂病者を讃美する、しかも「文学」を根拠にして、とかいうことはしょうもないんじゃないか、というのはバルトに限らず誰でもそう思うのではないでしょうか。例えば彼らはこういっています。

オイディプス形式の文学は、商品形態の文学なのだ。こうした文学よりも、精神分析の方が結局は不誠実さが少いとさえ考えてもいいかもしれないのだ。何故なら、全く端的な神経症患者は、孤独で責任ももたずに、読むにも耐えず売れもしない作品(神経症という病気)を作っているのであるからである。つまり、この作品(病気)は、たんに読んでもらうためばかりではなく、翻訳や縮約をしてもらうために、逆に(精神分析家に)お金を払わなければならないからである。この患者は、少くとも経済的な過ちを、またそつのなさに反する過ちを犯している。それに(自分を精神分析家だけに委ねて)自分の価値を広く普及させないでいる。アルトーはいみじくもこういい切っていた。一切のエクリチュールは、豚の糞なのだ、と。」(ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』市倉宏祐訳、河出書房新社、p.168.)

彼らのいうことはなるほどその通りかもしれません。けれどもそういうことをいってどうなるのでしょうか。「全く端的な神経症患者は、孤独で責任ももたずに、読むにも耐えず売れもしない作品(神経症という病気)を作っている」のだとしても、私の考えではそもそも神経症と文学には関係がありません。神経症患者は、幼年期や家族との関係に問題がある場合が多いので、よくファミリー・ロマンスのようなものを書きます。それはなるほど「読むにも耐えず売れもしない作品(神経症という病気)」かもしれません。でもそれでいいのではないでしょうか。ドゥルーズのような審美的な人からとやかく非難される必要はないのではないでしょうか。