反復の諸相(未刊)

YouTubeのためにピアノを弾きますが、その前に、少し抽象的なことを考えたいと思います。「反復の諸相」ということです。反復強迫(例えば、戦争神経症) / 悪循環 / 永遠回帰──これらのもろもろの「反復」はどう異なるのでしょうか。

ピエール・クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』という優れた本があります。邦訳もあります。フランス語もドイツ語もよくできる人ですが、私の知り合いで──現在は中国の大学で教鞭を取っています──青木純一さんという文芸批評家がいますが、彼は邦訳は良くないと言います。私はそうは思いません。しかしまあ、そのことはいいでしょう。

その本にニーチェの書簡が入っていますが、彼が原因不明の激しい頭痛にそれこそ死ぬほど苦しんでいたということが分かります。実際彼は病気で大学を教えるのをやめなければならなかったのですが(ドゥルーズニーチェは大学教授などというつまらないものではなく「私的思想家」なのだとか言いますが、ニーチェは別に好き好んでそうなったわけではありません。単に病気であったので、やむを得なかったというだけです)、その病気の原因はよく分かりません。ただ、ニーチェは、大学では、将来を嘱望されていた文献学の教授でした。古代ギリシャの古典を研究していました。だから、余りにも熱心に古文書を読み過ぎ、眼を酷使したために、体調を崩してしまったのではないか、という人もいます。しかし本当のところは分かりません。

とにかくニーチェは原因不明の病気で苦しんでいました。事実本当に、「死にたい」という希望を述べています。それでよく分からないのは、そのようなニーチェが生の肯定を語ったということです。それもただ単に生を肯定しただけではなく、「もう一度!」を反復を意欲するような、さらにいえば無限回の反復を意欲するような、そういう思想に到達したということです。このことは少し考えてみる価値があります。

もし、原因不明で治療法もない、わけの分からない激しい苦痛だけが続くような生、それがそれこそ「無限回」反復されるのだとしたらどうでしょうか。人はそのようなことに我慢できるのでしょうか。

クロソウスキーが「悪循環」というときに、正確に何を言いたかったのかはよく分かりません。ただ、実際の若いニーチェが感じていたような苦痛、それが無限に反復されるのだとしたら、そのようなことは別にとりたてて喜ばしい事態でもなんでもないとは思います。それはそれこそ「悪循環」なのではないでしょうか。

もしかしたらニーチェや、彼を解釈するドゥルーズなどは、そのような絶望的な悪循環を断ち切るようなものとして、永遠回帰というものを考えていたのかもしれません。しかし、相当に不透明な部分があります。

それはどういうことかと申しますと、ニーチェにとっては永遠回帰はまず体験、啓示であったということです。正確に西暦何年のことかまで今調べられませんが、とにかく圧倒的な体験、インスピレーションとしてあったということです。それでは彼は、その自分の体験なるものを、他者に伝達可能なかたちで言語化することに成功したでしょうか。私は疑わしいと思います。

例えば、若きサルトルは、「魔術」といってベルクソンニーチェを否定します。サルトルが「魔術」というとき、特に未開社会の呪術的思考だけを指しているわけではなく、もっと幅広い使い方をしています。彼なりに合理的に理解、把握できない思考を全て「魔術」といったのです。もちろんその当のサルトルの『存在と無』が完全に合理的なのかどうかというのは、まったく別問題です。その議論のヘーゲリアン的な前提がそもそも受け入れられない、という人も多いと思います。

ドゥルーズは、永遠回帰は単に循環的な時間性、つまり、単なる同じことの単調な繰り返しではないと強調します。単なる循環的な時間性ということなら、古代ギリシャの思想家、例えばヘラクレイトスが考えていました。ニーチェは自分の発想は完全にオリジナルだといっているのだから、古代以来あるようなありふれた考えであるはずがない、というのがドゥルーズの意見です。しかし、ヘラクレイトス的な循環ではないとしたら、ではなんなのでしょうか。そこがよく分かりません。

ただ、ニーチェに戻りますと、生を肯定するとか、無限回の反復を意欲するとかいっても、それこそ若き日の彼自身が身をもって体験したような苦痛や悲惨が無限回反復されるというようなことが本当に望ましいのでしょうか。それが私の感じている根本的な疑問です。

結局、ニーチェは発狂してしまいました。精神的なことが原因ではありません。単に梅毒が脳にまで到達してしまった、ということです。そして、有名な、私は歴史上の全ての名前である、私は十字架に架けられたことがある、というような狂った手紙を書きました。

柄谷行人の解釈では、一般に、ニーチェのいうようなことは、ヘーゲルと変わらないといいます。彼は「ヘーゲル的円環」とか言います。誰もそこから出ることはできない、というのが、彼の意見です。ただ、彼は、発狂したときのニーチェの手紙を引用し、これだけは違うかもしれない、と言っています。そうすると、どういうことになるでしょうか。

少し脱線しますと、湾岸戦争のとき、柄谷行人は、確かにフセインは狂気だが、アメリカに異を唱えるにはもうそのようなかたちでしかあり得ない、「造反無理」のようなものだ、と言いました。彼は当時の世界に深く絶望していたのです。ヘーゲル的円環 / ニーチェ、というような話に戻れば、ヘーゲル的円環から出るには狂気のようなものしかない、というのが彼の考えではないのでしょうか。

私はニーチェの専門家ではなく、そもそもドイツ語が全く読めませんから、そのような解釈が妥当なのかどうかは判断できません。恐らく妥当ではないのでしょう。それでも、考えてみる価値はあります。

角度を変えて考えてみましょう。フロイトが診察した戦争神経症の患者のことを思い出してください。彼らは毎晩、トラウマ的な、非常に苦痛な夢を見続けます。その「反復」は彼らの意志なり意欲とは関係がありません。むしろ、彼らは、非常に苦痛であるので、「反復」したくないと願っています。にも関わらず、どうしても執拗に反復してしまうのです。フロイトは、それは従来の彼の夢理論(夢=願望充足)では合理的に説明できないと考え、反復強迫とか死の本能(欲動)といった考えに到達しました。

さて、ニーチェ永遠回帰が合理的にはよく分からないというのと同じレヴェルで、フロイトの死の本能というのも純粋にロジカルにはよく理解できません。フロイト自身は死の本能を生物学的な実在と考えていたふしがありますが、そのような考えを受け入れたのはメラニー・クライン一人しかいません。それにクラインは別に生物学者だとか生物学の知識が豊富というわけでもありません。

フロイト以降の人でフロイトが主張していたそのままのかたちで死の本能という概念を維持した人は(クラインを除き)いません。ライヒは端的に後期フロイトを全否定しました。ガタリも似たような考えです。ラカンは、フロイトのフランス語訳がinstinctという生物学的な実在、生物学的な「本能」を思わせる用語を使っていたのを問題視し、誤訳だと言いました。彼自身はpulsionという用語が望ましいと言っていました。ラカンは、フロイトの概念を、生物学的な実在ではなく、むしろ言語との関わりで考えようとしたわけですが、そのようなラカンが、彼自身がいうほどフロイトに忠実ではないというのもまた明らかです。

戦争神経症の話に戻ると、そこにおける反復強迫永遠回帰の決定的な違いは、戦争神経症の患者が全く反復を意欲していない、「もう一度!」などとは思っていない(無限回反復したいなどとはなおさら思っていない)、にも関わらず無限に反復してしまう、それが苦痛であるということです。それはニーチェに関連した表現でいいますと、むしろ「悪循環」のほうに近いのではないでしょうか。

少し飛躍しますが、『差異と反復』──この時期には少しもフロイトを否定していないということに注意してください──で、フロイト精神分析療法の実践に触れて、ただ単に「想起」したり「認識」することによっては神経症は治らない、「行為」によって、或いはドゥルーズの表現によれば「演劇」によって治るのだ、と言われていました。もし悪循環を断ち切るのが永遠回帰なのだとしたら、それは「演劇」のようなものなのでしょうか。よく分かりません。

フロイト神経症の病因として「誘惑仮説」を想定していたが、後に放棄したというエピソードも思い出してください。フロイトがその初期に、主に女性のヒステリー患者を治療していたとき、彼は、患者を病気にしてしまった幼年期の記憶を想起し語るならば、つまり合理化し客観化するならば治ると思っていました。けれどもそういう単純な話ではなかったのです。

それは別にフロイト固有の問題ではなく、現代の問題でもあります。現代アメリカには、精神療法を受けて、幼年期のとんでもない記憶を「想起」してしまい、両親を法律的に告訴してしまうという人々が膨大にいて、社会的な大問題になってしまっています。親の側は、被害者の会のようなものを作っています。

虐待があったのかどうか、それは分かりません。もしかしたらあったのかもしれないし、なかったのかもしれません。ただ重要なのは、客観的に証明することがどうしてもできないということです。サイコセラピーで「想起」してしまった、ただそれだけなのです。それが「偽記憶」でないという保証はどこにもないのです。ましてやそのセラピー経験を根拠に両親を法的に告訴してしまうというようなことは大変なことです。仮に虐待があったとしても何十年も前の話で証拠も何もありません。そのようなものを警察や裁判所がどうやって裁けばいいのでしょうか。

さて、ドゥルーズに戻りますと、彼は哲学者であって医者ではありません。臨床経験はありません。だから、彼が言うことがどこまで妥当なのかは私には分かりません。ただ、彼はこう言っています。人は反復によって病み、反復によって癒えるのだと。謎めいた表現です。具体的、合理的にどういうことなのか理解するのは容易ではないと思います。

『ヒステリー研究』に登場してくるような女性達は「反復」によって治るのでしょうか。では、晩年のフロイトが診たような戦争神経症患者はどうでしょう。ニーチェの病気──神経症ではありませんでしたが──はどうなのでしょう。

中途半端ですみませんが、自分として考察をこれ以上進められないと思うので、今日のところは一旦中断して、mixiはてなダイアリーにアップし、そしてYouTubeを撮影します。予定の時刻を大幅に(1時間以上)超過、遅刻していますので。