近況アップデート

おはようございます。

恋愛の話をします。これまで人を好きになった、恋をしたことが3回あります。中学の頃、高校の頃、NAMの頃の3回です。大学とか大学院で出会ったような学生達は、なるほど知的だったかもしれませんが、自分にとって魅力は感じられませんでした。だから、大学に進んでから、漠然とつまらないと感じていました。自分が中学、高校で好きだったような人(同性)がいなかったからです。

中学で好きだった同級生はふたりいました。ひとりは、とても美しい少年でした。私は、中学にはいるときに、大分から船橋に引っ越してきました。登校してすぐに、彼と出会いました。彼の喋り方は完全にオネエ言葉でしたが、残念なことに、13歳の私は世の中のことに無知で、オネエ言葉とかいうのを知らなかったのです。だから、初めて会ったとき、歌舞伎かなにかでもやっているの?と的外れなことを訊いたりしました。今思い返せば、それは滑稽ですが。

もうひとりは、どちらかというと、より「少年っぽい」タイプ、「男の子っぽい」タイプでした。私はこの人にも非常に惹かれました。

ただ私は、中学生の頃、彼らに告白する勇気がまったくありませんでした。恋人どころかただの友達にさえ、なれなかったのです。卒業式の日にずいぶん後悔しました。卒業してしまえば、二度と会えない、会う機会はないのだということにも思い至りませんでした。中学を出てからずいぶん探しましたが、再会はかないませんでした。同窓会にもこなかったと思います。

高校生の頃好きになった人は、またまったくタイプが違っていて、自分でも戸惑いました。その人はバスケットボール部に入っていました。告白したわけではないですが、なんとなく私の気持ちが伝わってしまったようで、気持ち悪がられてしまいました。それは残念だし悲しいけれども、致し方がなかったと思います。

なんでその人のことが好きになってしまったのか、ということは、高校時代もそれ以降も考えました。私の結論は、生命力、生命感ということです。単に男らしいとか、かっこいいということとは違うように思いました。高校生のころから私は、自分に生命が欠けていると感じていました。だから生命的な人に惹かれたのだということだと思います。彼は明るい人でした。私は暗かった。

NAMの頃好きだった人は非常に知的でしたが、自分が惹かれたのはそこではなかったと思います。やはり高校時代とおなじで、生命力、生命感だということだと思いました。なにがきっかけだったか忘れましたが、私はついうっかり彼に告白してしまいましたが、当然のことながら、異性愛者である彼には受け入れてもらえず、気持ち悪いといわれてしまいました。でもそれも、致し方がなかったと思います。同性愛と異性愛の壁は越えられないと思うし、そのこととは別箇に、私自身に人間的、性的な魅力がまったくなかった、ということでしょう。

彼は友達にはなってくれました。けれども、私は彼にずいぶん迷惑をかけたし、困らせてしまったと思います。そのことは反省しているし、申し訳なかったと思います。当時既に私は死にたいという希望を頻繁に口走るような感じだったのですが、彼のほうは非常に健康な人でしたから、そういうことを言われても分からないし、どうしようもないのでただ困る、ということだったと思います。

彼からは、性的な接触、身体的な接触は絶対にするなといわれたので、それを(彼と会うことがなくなるまで、最後まで)守りました。彼の気持ち、人権、人格的な自由を尊重すべきだと思ったし、それに、なによりも(既に気持ち悪いといわれてしまっていたのだから)これ以上嫌われたくないと思いました。

彼と最後に会ったのがいつだったかもう覚えていません。彼は充実した職業生活、家庭生活を送っているときいています。私は、彼が幸福に暮らしているということを、ただ喜ぶべきなのだと思っています。今彼とは付き合いはありません。それは、恋愛や性という意味でも、友人という意味でも、政治的な意味でも、或いは知的な意味でも、彼にとって私がまったく価値がないからだと思います。それはもうしょうがない、と思っています。私自身が、自分に意味があると思っていないのです。

そういえば3.11の後、彼にメールして、避難したほうがいいといいました。彼の子供がまだ幼いのを知っていたからです。私の意見を聞いたわけではなく彼自身が考えていたのでしょうが、彼は家族で避難する決断をしました。倉数さんや菅原さん(それほど有名ではないですが、そういう小説家の知り合いがいるのです)も、彼らの子供が幼いと知っていましたから、おなじ助言をしました。ただ、彼らは関東に留まる決断をしました。菅原さんは、メールで、うちの子供は逃げないといっている、と返答してきましたが、まだ子供なのに、放射能の危険性などが分かっているのだろうか、と疑問に思いました。けれどもそれ以上強くいう権利は私にはありませんでした。

善意や利他心に意味があると考えませんが、すこしは利他的な動機が残っていたということです。つまり子供が幼いならば、危険からは防御されるべきだというようなことです。成人した大人が、危険性を理解したうえで、それでも自分の意志で留まる、避難しない、というのはまったくべつの問題です。

今いったことに限らず、誰かを守りたいという動機がたしかに自分にはあります。しかし、そのような動機からの行為が現実には無意味な場合が多いのも、長い経験からよく承知しています。

話は変わりますが、ドラムの大学生君が練習したいというので朝からずっと座って待っています。9:00の約束でしたが、もう11:00なのに、来ません。これはとても困ります。私は朝食も摂ることができずにただ待っているのですから。約束の時間は守らなければだめです。

ドラムの子は芸音をやめて、プロのジャズドラマーの先生の指導を受けます。だから彼はもう、私の生徒ではありません。

ただ、彼は団地に住んでいますから、ドラムセットを持って帰っても置く場所がありません。レッスンはやめても、ドラムセットを置かせてほしいし、練習をしたいそうですが、私は彼の希望にできるだけ添いたいと思っています。

くだらないと感じますが、それが私なりの「善意」であるということです。自分が良い教師であった、と思いません。せめて彼が能力や可能性を伸ばすことができるように配慮するというくらいしかできません。

私が彼の我儘(約束の時間を破る、とか)を許しているのは、彼がとても若いと考えるからです。十代なのですから、大学生といってもまだ子供です。そして若い、というのは、凡庸な表現になってしまいますが、特権的です。なぜなら、歳を取ってしまえば、二度と若くあることはできないのですから。

しかし、朝からずっと待ち侘びているので、食事も摂れず、降圧剤も飲めず(私は高血圧なのです)、困っています。13:00からはカラオケ教室があります。もう残り時間がありません。困りました。

我儘を許すことだけが優しさではない、とは思います。しかし、インターネットの他者に苛酷な私しか知らない人には意外でしょうが、私は他人に厳しく接することができない、その能力がないのです。

昔から、自分は滅びてもいいから、他人には生き延びて欲しい、という感情があります。そのような心理を、フロイトは正確に、「道徳的マゾヒズム」と表現しました。

まあこうした一切のことは、くだらないし、暗いと思いますが、自分にはそのように考えることしかできないということです。

3時間以上も待っていたのだから、もうそろそろいいでしょう。一度電話があり、10:00になるとのことでしたが、10:00にも来ませんでした。でも、べつにいいのです。どうせ暇なのだし。

「自分は滅びてもいいから、他人には生き延びて欲しい」というような信念の起源を遡ると、大学時代からすでにそのように考えていたことが分かります。つまり、自分は絶対にうまくいかないが、すなわち滅びるけれども、しかし「別の誰か」が代わりに成功するのだから、それでいいではないか、というような考えです。