音楽と記号

記号という観点から音楽を考えてみてはどうかとも私はかつて語ったが、言うは易し、だ。
記号という視点で考えると分かりやすいのはクラシックでもジャズでも「楽譜」でしょう。楽譜は言葉(言語)ではないが、音楽的に意味のある記号の組み合わせで、演奏者はそれを「解釈」して演奏する。もし音楽が純粋な理念的対象としてのみあり、耳に聴こえる感覚的対象としてないならば、例えばスコアを読みさえすれば実際のオーケストラの演奏を聴かなくてもいい、ということになるでしょう。耳が聴こえなくなった晩年のベートーヴェンのことを考えてもいい。
クラシックには勿論譜面(楽譜)があるし、自由な解釈や即興の余地がより大きいジャズにおいても、少なくとも簡略化された楽譜がある(バークリー・メソッド)。例えば「Cm」というのは一つの記号で、或る和音を意味しているよね。だけれども、例えばジャズピアニストがどのように鍵盤を押さえるかというのは、その人の解釈とかセンスに委ねられるわけだ。
演奏者にとって楽譜は記号だし、聴取者(リスナー)にとって実演された音は記号。つまり、誰それの演奏を聴いて様々なことを感じたり、考えたりする。但し、音楽の場合、言葉(言語)と同じというわけにはいかない。「ペン」とか「机」といえば、恐らく(言葉=この場合は日本語を理解する人の、ということだが)多くが同一?の一般観念、概念を思い浮かべるだろうが、しかし、音楽の場合はそうはいかない。例えば同じチャーリー・パーカーのサヴォイの『チャーリー・パーカー・ストーリー』を聴いても、聴いた人みんなが同じ感情とか想念を共有するとかいうことはあり得ない。
では全ては感覚、感性、センスで、全ては相対的なのか? このことはよくよく考えてみる必要があると思う。パーカーを聴いてつまらない、退屈、無価値と思う人の解釈と、パーカーを素晴らしいと思う人の解釈は、「等価」なのか? 私はそうではない、と思う。音楽家、批評家、聴き手…から成る音楽或いはジャズの趣味の共同体を想定してみる。その共同体は「一枚岩で静的」ではなく、「多数多様で議論に満ちており、動的」である。そこにおける果てしない議論を通じて、徐々に評価は定まってくるのではないか。
だから全くの無名の新人の新譜に向き合う時、我々は「価値の全く分からないもの、評価が定まっていない、確定していないもの」に向き合っているわけだ。我々がそれを聴き、感想を述べあい、討議を続けることで、やがて暫定的な評価が生まれるのだと思う。