友人の掲示板への書き込み

後藤さんとの論争?の件については私自身もジャズの美学など分からないので打ち止め、って感じだった。
ただ、彼のメルロ=ポンティフーコーの対比のさせ方には疑問が残る。というか、私の場合、政治を語るフーコーは信用できるが、哲学を語るフーコーは信用できない。
元々フーコーは、現象学(ビンスヴァンガーの現存在分析)から出発した。それはビンスヴァンガーの『夢と実存』への長文の序論や、『精神疾患と心理学』で明らかだ。『狂気の歴史』以降彼は変わったけれども、どう変わったのか、どこが現象学と相容れなくなったのか、ということは検証が必要。それはドゥルーズデリダといったより「哲学者っぽい」哲学者も同様。あの世代の人達は、メルロ=ポンティという先行者を批判なり否定しなければ先に進めなかったという印象があるが、彼らが本当に現象学を乗り越えたのかは疑問。一時期、超越論的主観性に依拠する現象学に対し、そうしたものを必要としない構造主義(以降の思潮)のほうが進んでいるという浅はかな理解があったが、そのような議論についてはデリダそのものが根本的に否定している。そもそも構造主義とかポスト構造主義などの曖昧な用語であの世代を語れるのか疑問。
結局フーコーは、ニーチェ的というか、哲学的な原理原則を思弁的に展開するということを一切せず、むしろ人々に「思考を強いる」ような問いだけを発し続けたのだと思う。だから『知の考古学』という著作はあっても、フーコーの(哲学)体系などといったものはない。『知の考古学』自体難解極まりないし、それを我慢して読んでも、彼の主張が妥当だという保証は一切ない。

プラトンについていえば、私は恋愛、というか同性愛の文脈で、エロス論として、「美のイデアの想起」を考えている。音楽やジャズの美学の原理としてプラトニズム、イデア論や想起説を持ってくるのは若干(というか相当)無理がある、と思う。
つまりVelvet Sunで美少年に遭遇して、私は、常に既に失われた本来的に過去的な対象であるところの美のイデアの痕跡と出会ったのであり、その痕跡を通してイデアを「想起した」わけだ。というか、私には、特定の誰それということではなくて、美少年の理念というか、原型というか、そういうものがあって、特定の誰かとの出会いがそれの「想起」を私に強いるということだよね。