「美」をめぐって〜所謂一つの駄目人間〜赤裸の心

"Mr.Negative" 攝津正である。15:40頃二和向台を出発して荻窪Velvet Sunに向かい、そこでのJam Sessionに参加して、21:10頃失礼し、たった今(23:30頃)帰宅したばかりである。出費を家計簿につけ、測定した血圧をパソコンのメモ帳に記入し、このファイルを立ち上げて文章を綴っている。二和向台を出発した時健康であった私は、荻窪では極度の抑鬱・不安・悲嘆──神経衰弱状態に陥り、自宅(Home)に帰ってきた自分は、再び快復している。どうしてそういうことになるのか、という心理的な機微も含めて、今日の体験を言葉にしてみたい。
私は(もう何度も書いているように)最初社会不安障害(SAD)と診断され(高根台メンタルクリニックで)、次いで回避性人格障害(APD)と診断された(爽風会佐々木病院で)。基本的に病名や診断にはこだわっていないが、そのような見立てが正確であると感じるのは、確かに、社会的或いは社交的な場面で、強い羞恥心や恐れ、不安、抑鬱感情などを抱くからである。私は長年深く病んでいる。単に外に出ること、電車に乗って荻窪まで出掛けること──千葉の片田舎である二和向台から荻窪までは遠い──、Velvet Sunという店に入ること、Sessionに参加すること、こうした一連のことが激しい苦痛を齎す。だがこの苦痛は避けられない。苦痛を回避するには、「二和向台の自宅(Home)に留まり、そこから一歩も出ない」という方策しかないからである。外に出て他者に出会う限り、強烈な(強烈過ぎる)刺激を蒙り、深く傷付くのは避けられない。陳腐な比喩であることは承知しているが、敢えていえば、心の傷が口を開け、そこから見えない血液がどくどくと流れ出すといった感じである。しかし、何故そうなるのか。出来事を順に追って話そうと思う。
JR荻窪駅に着いた私は、メモ書きを片手に歩いたが、迷わなかった。目印を頼りに歩いたが、無事、Velvet Sunに到着した。時刻は18:00前であったと記憶している。まだ客は入っておらず、店長と店員が二人で準備作業をしていた。私は、座って待った。Velvet Sunの隣りのLawson Store 100で、105円で、ペットボトルのお茶を飲んで啜っていた。時刻が18:30を過ぎると、主催者の吉田隆一さん(bs)ら、人が続々と入ってきた。皆、Jam Sessionの参加費1500円を支払っていたので、私も、参加費を支払った。ワンドリンク付きだというので、紅茶にしていただいた。
19:00を少し過ぎて、Sessionが始まった。大体、出番は一人2回くらいだと聞いていた。私は、自分の2回目の出番が終わった段階で、それは20:00少し前と記憶しているが、店長に、体調が悪いので帰ると告げた。というのは、こういうことがあったのである。私は、飲み物を飲む時以外、顔の大部分が隠れるような大きなマスクをしていた。だから、Sessionが始まるのを待つ間、近くに座っていた人から、ご病気ですか、と訊ねられたが、大きく頷いた。ただ、彼は恐らく風邪を予想していただろうが、そうではなく精神疾患だった。私が大きなマスクをしていたのは、他者らから顔(表情)を隠すためだったのである。つまり、私は、多くの、といっても10名前後ではあったのだが、それだけの人々の間にいて、強烈な不安感と抑鬱を感じていたのである。言い換えれば、強烈な精神的苦痛を。だから、2回とも演奏は駄目だった。そう自分では感じていた。私は、自分は病気なので社会生活を営むこと自体が激しく無理(不可能)なのだと考え、諦めて帰ろうとしたのである。
その時丁度、偶然、スガダイローさん(p)が入ってきた。私は、Twitterで私を誘ってくれた彼に挨拶し、店を出て歩き始めた。そして、自宅の両親に電話を入れ、具合が悪いのでこれから帰る、と携帯電話で話していたまさにその時に、追い掛けてきたVelvet Sunの店員に呼び止められた。スガダイローさんが、どうしても私と酒を飲んで話をしたいから、店に戻ってくれというのである。それで私は、急遽予定を変更し、店へ戻った。
スガダイローさんは私にビール一本を奢ってくれ、一般には発売されておらず、Velvet Sunでしか売っていないのだという彼自身のCDをプレゼントしてくれた。そして、Sessionの出番は一人2回程度と聞いていたが、彼が交渉して3回目の出番を作ってくれた。それは、私のピアノとドラムの人のデュオであった。
私は相変わらず気分はすぐれなかったが、とにもかくにも、一所懸命演奏した。それに対し、ドラムの人の感想は、「消耗した」であった。私の演奏の模様は、Velvet SunのUstream放送でインターネットで生中継されたが、「酷い」という感想しか寄せられなかったらしい。しかし、そのことに私は別にそれほど傷つきはしなかった。ネットで「なんて酷い演奏だ!」と罵倒されることには、既にもう慣れっこになっていたからである。
私が強い衝撃を受けたのは、休憩を挟んで2組目だったと思うが、Thelonious Monkの"Straight, No Chaser"を演奏したグループを見た時である。pianistは、見たところ小学校低学年くらいの子供だったが、その彼が、バッキングもソロ(アドリブ)も、実にジャズらしい素晴らしい演奏をしたのである。36歳のオヤジである自分よりも、小学校低学年の子供のほうが、技術的にも遥かに卓越し、「ジャズらしい」演奏を展開している…。この残酷な現実の前に私は、すっかり自信と希望を喪失した。
しかし、私を最も傷付けたのはそのことではなかった。これから書くことは、このダイアリーの読者の多数にとって意味不明、了解不能な壊れた思考回路だと映るかもしれない。だが事実なので、事実をありのままに書くしかない。
そのグループでヴァイオリンを演奏していた、眼鏡を掛け、猫耳を装着し、奇妙な茶色い服を着た若い男の子(恐らく大学生くらいだと思う)が余りにも美しかったのである。私に、最初にVelvet Sunを訪れた数年前のJam Sessionの記憶が甦った。その時も確かに彼はそこにいた。私は、当時既に、彼の美貌と魅力に強い衝撃を受け、精神的に混乱し、抑鬱と悲嘆の底に沈んだという思い出がある。今日まさに、当時と同じことが起きたのである。
多くの読者には理解できない不条理に聞こえるのではないかと懸念する。何故、美しい人を見て、深い抑鬱と悲嘆の底に沈むのか。そこには私に特異な思考回路があるからであって、それが了解されないのではないかと恐れるのだ。私にとって「美」は無縁なものであり、そして致死的である。それは私を精神的、感情的に深く混乱させ、苦しめる。何故そういうことになるのか。それは私がプラトニストだからだろう、と思う。
抽象的で退屈な話になるが、もう少し辛抱していただきたい。私の考えでは、プラトンの哲学、プラトニズムは少しも古くはなく、現在でも活きている思想である。ニーチェドゥルーズらが「プラトニズムの顛倒」を企てたとしても、そのことはなんら変わっていないと思う。そしてそのドゥルーズの最も興味深い著作である『意味の論理学』に面白い議論がある。ドゥルーズによれば、ソクラテス以前の哲学者達が分裂症的だとすれば、プラトニズムは抑鬱的または躁鬱的であり、エピクロスやストアなどは語の最も肯定的な意味で倒錯的であるという。
プラトニズムが抑鬱的である、或いはメラニー・クライン風に言うならば「抑鬱ポジション」にあるとすれば、それは、「美」(美のイデア)というものが常に既に失われた対象であるからではないか。ドゥルーズのもう一つの主著である『差異と反復』の第二章は、ベルクソンプルーストフロイトラカンらを援用しつつ、プラトンイデアとは、本来的に過去的な対象であるとする。本来的に過去的な対象であるとは、いまだかつて一度も「現在」であった試しのない純粋過去に属しているということである。ドゥルーズによれば、プラトンデカルトを分かつ最大の論点はその時間性にある。デカルトのコギトには瞬間、或いは現在しかない。『省察』の語る「私は考える、私はある」は、そのように考える瞬間瞬間にその都度成り立つだけである。言い換えれば、「私は考える、私はある」というのは一般的な、或いは普遍的な真理ではないのである。それに対し、プラトニズムの核心は、本来的に過去的な対象であるイデアの「想起(アムネーシス)」にある。つまり、プラトニズムにあっては、本来的、本質的な喪失、対象喪失があるのである。プラトニズムが抑鬱的であるというのはそこに理由がある。
哲学の話はこれくらいにして、私自身の体験に戻れば、私にとって「美」とは、常に既に、そして決定的に失われた対象なのである。…勿論私はキモブタであり、そんな自分に「美」を語る資格など微塵もないということはよく承知している。倉数茂は「美的アナキズム」を語ったが、私の場合はさしずめ「醜」的アナキズムとでもいうべきか。
ともあれ、そのヴァイオリニストの若者を見た瞬間に私は以上のことを、つまり自分の「根源的喪失」を悟った、直観したのである。平たくいえば、若い頃、私は、自分自身美しくもなかったし、美しい同性の若者と友人や恋人になることもできなかった。私の同性愛趣味は、恥ずかしながら思春期の頃読み耽った『風と木の詩』や『パタリロ!』といった少女漫画に由来しており、大いに夢想的なものであった。つまり若き日の私にとって同性愛とは、根本的で取り返しのつかない失敗や挫折の別名であったのだ。そのことを私は、一瞬のうちに思い出した。私は「超明晰」であった。明晰であるのはいいが、「超明晰」は危険である。何故ならそれは「狂気」の別名だからである。
──おおよそ以上のような経緯で、私が決定的にうちのめされ、深い抑鬱と悲嘆の底に沈んだということをご理解いただけただろうか。
そのグループを観てすぐに(21:10頃)、私はVelvet Sunの店長に、帰る意思を伝えた。スガダイローさんにご挨拶をと言われたが、彼は見当たらず、よろしくお伝えくださいと申し上げた。
荻窪駅から電車に乗って帰る間、以上のことを、この文章のことをずっと考えていた。頭の中で推敲を繰り返していた。私は幼い頃から現在に至るまで、ずっとものを書いてきた。インターネット普及の以前も以後もずっと書いてきた。一銭にもならないが、書くことは自分にとって本来的で本質的なことである。書く営みを通じて、体験は記憶から理念に変貌する、言い換えれば、自分の心身から切り離された客観的な対象になるのだということを、私は経験的に知悉している。
私が知悉、精通しているのはそのことだけではない。深い抑鬱や不安、悲嘆といった感情にどう対処すれば良いかという極めて具体的な技術、コツに精通しているのである。何といっても私は、「私自身であることのプロ」なのであり、病気の苦痛とも何十年も付き合ってきたのだ。精神科医(主治医)が私の病いに向き合ってくれるのは僅か月に5分程度でしかないが、私自身はといえば毎日、四六時中自らの病い(カラタニ風にいえば、「ビョーキ」)と向き合わねばならぬ。強制的に。だから自然と自らの病いや心理的機微に異常に詳しくなるものなのだ。
私は、電車で荻窪から船橋へ、二和向台へ近付けば近付くほどに、negativeな気持ちから徐々に解放され楽になるだろうと予想したが、実際その通りになった。これは早稲田のあかねでスタッフをやっていた頃に気付いた現象だ。電車が早稲田を出る時には強度の不安感に苛まれていても、船橋に近付けば近付くほど楽になるのが毎週確認できた。
また、帰宅して文章で表現すればもっと楽になるだろう、不安が安心に、苦痛が快楽に変わるだろうとも予想したが、それもその通りになった。
荻窪という「アウェイ」から、二和向台という「ホーム」での日常生活に復帰すれば、荻窪での体験は「一夜の夢」のようなものになるだろうとも思った。
最後に、突飛な考えと受け取られるかもしれないが、元旦に御滝不動尊に初詣に行けば苦しみから逃れられる、とも思案した。私は宗教的な信仰心がある人間ではない。しかし、滝不動まで長い道のりを歩き、賽銭を投げ、賽銭箱の前で手を合わせるといった一連の身体的な動き、動作、運動が心理的苦痛からの解放を齎すと予想している。
書き残したこと。高校教師のきくちさんという方のpianoが上手かった。彼は、「貧乏暇なしですから」と笑っていたが、(無職無収入で無為無能であるが故に)「貧乏暇あり」である私とどちらが優れているか(労働者としても、音楽的にも、いずれの意味でも)は自明だと思った。私は「所謂一つの駄目人間」なのである。そのことを強く感じた一日でもあった。長くなったが、このくらいで一旦送る。