言葉は無限に溢れ出て〜ドキュンな自分を肯定する

マイミクのでぶさんのmixiボイスで「ドキュン」が批判的、嘲笑的に語られていてドキッとした。彼は「マイミクの誰かのことではない」と断っていたから、私のことではないのだが、やはり自分のことのように感じた。私は、結局大学(院)に適応できなかった。そこで生き残れなかった。以来、どうしようもない「失敗続きの人生」へと転落したからである。
私は、様々な意味でドキュンである。まず、ドゥルーズ読みだったはずだが、ドゥルーズのことをまるで知らない。そもそも彼の原書や邦訳書で持っていないものも相当数ある。院生時代から貧乏で買えず、研究室の本を借りて読んでいたのである。そして、微積分学など高等数学に完全に無知だというのが致命的である。ドゥルーズの思想は「差異」を微分の概念で考えるというものなのだから、微分が分からないのではどうしようもない。フランス語も駄目である。修士論文の審査のときに、財津理からはっきり、「フランス語読解がまるでできていない、お前は詐欺師だ」と断言された。またドゥルーズは『シネマ』を書いたが、映画にもくわしくないし、そもそも映画に無関心である。さらに、ガタリという人、特にその『分裂分析的地図作成法』も全く理解できない。
ドゥルーズを離れて西洋哲学一般の教養という点でも、私は貧困である。私にはドイツ観念論が全く分からない。専門のはずのフランス哲学も、好きでよく読んでいた英米哲学(分析哲学ではなくそれ以前の、イギリス経験論やアメリカのプラグマティズム)も十分に知らない。古典ギリシャ語やラテン語もできないから、古代哲学や中世哲学にも素人である。たまに、プラトン、いいな!と思うこともあるが、原文を確かめる能力はない。
文学、文芸に関しても基礎的な知識、教養、審美眼が欠如している。「書く人」としても駄目だ。大学1年のときに唯一の短篇小説習作『起きたことと起きなかったこと』をサークルの会誌に発表したが、今から思うと酷い出来だった。あれが現存しないのは私にとって幸いである。
短歌の勉強は、始めたばかりでよく分からない。
ジャズピアノは自己流、我流である。
などなど、挙げればきりがない。ただ、私はそういうドキュンな自分を肯定したい。哲学研究者を目指してみたがなれなかった人などたくさんいるはずだ。私はその一人でしかない。また、「何をやっても駄目だった=芽が出なかった」のは能力がなかったので致し方ない。そう思うのだ。