音楽観の違い2

うちの母親は長年、キャバレーやクラブ等で働き、プロフェッショナルなピアニストとかバンドマスターとして生活してきた。そのことは尊いことだと思う。だが自分には(あらゆる意味で)同じことはできないし、したくない。
喰っていかなければならない──それは真理だ。思い出すのだが、外山恒一と揉めていたとき、すが秀実が、外山は純粋に金銭のため、生活のためにストリートミュージシャンをやっている、と称賛していた。しかしそれは、外山にとって音楽活動よりもファシズムの政治活動のほうが重要であるため、活動資金捻出のために金が必要で、そのため音楽を「手段」としたということだろう。しかし、私の場合は全く完全に非政治的で、むしろ音楽(いや、「雑音」)が全てである。自分にとって表現活動より大事なものは何もない。
大西巨人の『縮図・インコ道理教』(太田出版)で引用・言及されていたのだが、若くして貧窮のうちに死んだ樋口一葉が、文学が糊口を凌ぐためのものであってはならない、という意味のことを日記に書き残していたという。私は、文学のみならず音楽も同じだと思うのである。