金銭、恋愛、死

夏目漱石『心』を読み終わったが、一番印象に残ったのは、「先生」が「私」に語る「恋愛は罪悪ですよ」という言葉だ。その「罪悪」の内容は、自殺しようとしている「先生」から「私」に送られる手紙=遺書に明らかにされているが、「お嬢さん」との恋愛を巡って、「先生」が「K」に勝利したが、その結果「K」は自殺してしまった、ということである。つまり「K」の死に「先生」は責任を感じており、それが「罪悪」という表現に繋がっていると言える。
「先生」は死んだ親の財産を親戚に誤魔化されたという過去を持っており、その一件で「先生」は他人を信用できなくなった。つまり人間は、普段は善男善女だとしても、いざ金銭が絡むと悪人に変わる場合がある、というのである。そして、恋愛を巡るいざこざでは、他人だけでなく自分も信じられなくなった、とのことである。つまり、「先生」が罪悪なり悪と看做すのは、金銭と恋愛なのであって、それを敷衍すれば人間の「我欲」(これも「天罰」同様、石原慎太郎的なタームだが)が罪であり悪であるということだろう。もし徹底的なエゴイストだったら、恋愛を巡る争いで仮に恋敵が自殺したとしても、自分の欲望を肯定するだろう。それができないところに、「先生」の倫理性もあるし、明治という時代精神もある。
前近代と違って、個々人がエゴイズムを肯定しても良い時代になった。しかし、欲望と欲望のぶつかり合いは時に悲劇を生む。「K」や「先生」はそのことに堪えられない倫理的人間ということになるだろう。生命=我欲を否定したら、辿る道はただ「死」に通じているだろう。だから「K」も「先生」も自殺した。二人とも、もっと我儘な人間であれば死なずに済んだはずである。それなのに死が必然であったというところが、明治という激動の時代、価値観が変動しつつあった時代の悲劇なのだろう。
恋愛というものにそれほどの崇高な感じを持つことのできない現代の我々が読んで、『心』にどれほどの意味があるだろうか。それは分からない。だが、近代日本において、このような表現が達成されたということは奇蹟だと思う。