夏目漱石『心 先生の遺書』を読み始める。

白木秀雄の『ファンキー!登場!』を聴いている。
坂口安吾の『吹雪物語』が読めずに落ち込んでいたのだが、夏目漱石の『心 先生の遺書』を読み始め、これが滅法面白いので興奮している。勿論『心』は高校の国語の教科書などにも出てくるし、何度も読んだことがあり、筋書き・内容もほぼ把握しているのだが、それでも再読すると面白い。
若き日の橋本治が、『蓮と刀』で、『心』を同性愛という視点から読んだが、私の見るところ、同性愛という概念を余程拡張解釈するのでないなら、その読解には無理がある。そうではなくて、『心』は人間と人間の関係性が凝縮された物語なのである。
太宰治が、夏目漱石通俗的と非難したが、「通俗的」かどうかはともかく、『心』は非常に面白い。冒頭、語り手の「私」と「先生」は鎌倉の海水浴場で出会うわけだが、その辺りの描写もかなり読み手を引き込む魅力に溢れている。東京に帰って、「私」が「先生」宅を訪問するようになっての二人の問答も面白い。
「先生」と奥さん(静)の間には子供ができない。そのことを「先生」は「天罰」と捉えている。「先生」にとって不妊は、科学、医学の問題ではなく、倫理、罪責の問題なのである。現代人である我々が、それはおかしいと言っても、さしたる意味はあるまい。「先生」は罪責の念のもとに生きている人なのである。
話は変わるが、今「天罰」と言って連想するのは、石原慎太郎だろう。だが、彼は悪い意味で「文学的」である。新・堕落論などといっても、坂口安吾と共通性はない。明治の「先生」に科学、医学を持ち出すのが時代錯誤なように、現代の我々に「天罰」を語る石原は時代錯誤であり場違いである。
三四郎』の広田先生や『心』の「先生」の延長線上に、島田雅彦は『彼岸先生』を書いた。漱石的人物と共に島田流の悪意や毒気や捻りが加えられている。そういうふうに、漱石的人物は現代にも生きている。
それと同時に、現代の新しい批評家(大杉重男など)は夏目漱石批判を書いている。『アンチ漱石』などである。ただ、これも、漱石が圧倒的に人口に膾炙している現状があって初めて成り立つ批判だと思う。その意味で、まずは漱石を読むところから始めねばならない。

ファンキー!登場+6

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