ハイデガー

先程のエントリーで、第二次世界大戦を契機とする現代映画に対応する「生の哲学」批判として、ハイデガーを挙げようとして、躊躇し、結局消してしまった。それは、ハイデガーは単純な「生の哲学」(生命主義)でも「実存主義」でもないとしても、第一次世界大戦の頃から哲学的に活動しており、第二次世界大戦においてはナチスに協力したからである。柄谷行人坂口安吾の「堕落」はハイデガーの哲学の逆だと述べているが、確かにハイデガーは、戦後的猥雑とは無縁であるようにみえる。

しかし、時期的にはずれるとしても、現代映画や坂口安吾に哲学的に対応するのは、ハイデガー、特にその(キェルケゴールを換骨奪胎した)不安の哲学である。安吾のいう堕落が語の通常の意味におけるそれと異なるように、ハイデガーの不安は、いわば人間の生きる条件のようなものなのである。

ドゥルーズの現代映画論は、ベルクソンを援用しながら、ベルクソン的「生の哲学」の徹底的な批判になっている。環境に適応し、外界からの刺激に適切に応答する限りの人間、つまりは有機体としての人間とは異なる次元が(『快感原則の彼岸』以降の後期)フロイトハイデガーらによって開示されるのである。