ルソーとニーチェその2

さてルソーは、先程引用した箇所に続けて、次のように興味深いことを述べています。

公共教育はもう存在しないし、存在することもできない。祖国のないところには、市民はありえないからだ。「祖国」と「市民」という二つの言葉は近代語から抹殺されるべきだ。わたしはその理由をよく知っているが、それは言いたくない。それはわたしの主題に関係ないことだ。(二十九ページ)

我々がこれを読んで奇妙に感じるとすれば、祖国と市民、いや国民という主題はむしろ十九世紀から二十世紀に掛けて大いに盛り上がった主題であると思われるからです。それはナショナリズムと呼ばれています。我々は現在も、このナショナリズムから自由ではありません。
どうしてこういうことになるのか。恐らくルソーの意図を裏切るかたちで、市民(ブルジョア)革命を通じて、近代の資本制国民国家が形成されたからではないでしょうか。そこでは、常備軍国民皆兵)が理想となり、傭兵よりも強いものとされます。戦士階級から、市民(国民)全員が銃を取る体制への変化です。そこで、「戦争で死ぬということ」にも意味づけが与えられた。
先程引用したような、スパルタの婦人の例を読んで、我々は戦前の日本、大日本帝国のことを思い出さないでしょうか。子供が戦死するのは人情の自然として悲しい。しかし、それを「お国のため」と意味づける回路が、近現代において誕生した、或いは再確立したのではないでしょうか。
祖国や市民、国民という概念は死んだ、とルソーは言っています。しかしそれは蘇ったのです。そしてそれが、近代ナショナリズムの中核に位置しています。