小林秀雄『Xへの手紙』

以下は小林秀雄『Xへの手紙』からの抜粋(小林秀雄『Xへの手紙・私小説論』新潮文庫p63-64)。小林秀雄の知的源泉はベルクソン、アラン、ヴァレリーにあるといわれるが、このような「死」の感覚が彼らにあるだろうか。実に奇妙な文章だと思う。

ただ明瞭なものは自分の苦痛だけだ。この俺よりも長生きしたげな苦痛によって痺れる精神だけだ。痺れた頭はただものを眺める事しか出来なくなる。俺は茫然として眼の前を様々な形が通り過ぎるのを眺める、何故彼等は一種の秩序を守って通行するのか、何故樹木は樹木に見え、犬は犬にしか見えないのか、俺は奇妙な不安を感じて来る。俺は懸命に何かを忍んでいる、だが何を忍んでいるのか決してわからない。極度の注意を払っている、だが何に対して払っているのか決してわからない。君にこの困憊がわかって貰えるだろうか。俺はこの時、生きようと思う心のうちに、何か物理的な誤差の様なものを明らかに感ずるのである。俺はこの誤差に堪えられない様に思う。俺は一体死を思っているのだろうか、それとも既に生きてはいないのだろうかと思う。眼を閉じると雪の様なものが降って来る、色もなく音もなく、だが俺は止めにしよう、どうもつくり話を書くのは得手じゃない。それにこれでも文学的描写のはかなさぐらいは俺も或る程度までは心得ている積りなのだ。
言うまでもなく俺は自殺のまわりをうろついていた。この様な世紀に生れ、夢みる事の速かな若年期に、一っぺんも自殺をはかった事のない様な人は、余程幸福な月日の下に生れた人じゃないかと俺は思う。俺は今までに自殺をはかった経験が二度ある、一度は退屈の為に、一度は女の為に。俺はこの話を誰にも語った事はない、自殺失敗談くらい馬鹿々々しい話はないからだ、夢物語が馬鹿々々しい様に。力んでいるのは当人だけだ。大体話が他人に伝えるにはあんまりこみ入りすぎているというより寧ろ現に生きているじゃないか、現に夢から覚めてるじゃないかというその事が既に飛んでもない不器用なのだ。俺は聞手の退屈の方に理屈があると信じている。
一度は退屈の為に、一度は女の為に、今から想えばたあいもない。だが、この苦しかったには相違なかったが、徹頭徹尾嘘っぱちだった愚かしい経験によって、腹に這入った事がある。自殺して了った人間というものはあったが、自殺しようと思っている人間とは自体意味をなさぬ、と。海水を呑み過ぎた為だとか、汽車に切断された為だとか、様々の為によって亡躯となった何処其処の男とか女とかがあったという、恐ろしく単純な明瞭な事実があるに過ぎない。人は女の為にも金銭の為にも自殺する事は出来ない。凡そ明瞭な苦痛の為に自殺する事は出来ない。繰返さざるを得ない名附けようもない無意味な努力の累積から来る単調に堪えられないで死ぬのだ。死はいつも向うから歩いて来る。俺達は彼に会いに出掛けるかも知れないが、邂逅の場所は断じて明かされていないのだ。

Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)

Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)