価値を考える。

価値を巡って、古典派、マルクス近代経済学などが考えてきた。地域通貨の場合、そのような意味で、つまり経済学的な意味での価値を考えるのか、それともそれとは全く異質な、例えば芸術作品の価値といったものを想定するのか、それによって地域通貨とそれが表現する価値のイメージは大きく異なってくる。
地域通貨といっても、例えばLETSの場合、労働時間が価値の源泉とは考えられない。売り手と買い手が合意すれば、どんな価値づけをしても良い。とすると、芸術作品の価値に近いのだろうか。そうかもしれない。だが、そうだとすると、日常生活で消費するような商品の取引はどうするか、難しい問題になってくる。
さらに、取引の実際においては、全額地域通貨で取引するのか、国民通貨と地域通貨を何らかの比率で併用して取引するのか、というのも重要な点である。
ボランティアやその延長、さらには資本制では価値あるものと承認されなかったモノ・サービスへの対価支払いなどの場合は、全額地域通貨の取引も考えられる。そのような場合は、従来、資本制では無価値か無償か無用と思われていたものに価値が見出されるということであり、大袈裟にいうならば、そのような場合、その都度新たな世界が発明されているのだとも言って良い。だが、現実のシビアな資本制経済の内側にいる人間、賃労働者や自営業者にとっては、そうはいかない。「使えない」或いは「使徒が極端に限定されている」貨幣で対価を受け取ることは、彼ないし彼女の経済生活の破綻を帰結する。だから、「それを売ることで自身の生計を立てている」商品を売る場合、彼ないし彼女は、地域通貨での取引を断念するか、或いは、国民通貨と地域通貨を混ぜ合わせた取引を選択するしかない。
例えば、私が、一枚200円のCD-Rを売って生計を立てていると仮定しよう。私は、地域通貨での取引を断念してそれを国民通貨でのみ売るか、或いはそのCD-Rを180円+20LETSで売ることで、生計を立てる。この場合、地域通貨の分は、その通貨が「(まだ)使えない」通貨であった場合、単純に損失となる。以前から指摘されてきた、「生産者側が地域通貨を貯め込み、使えず死蔵する場合」である。この場合、生産者は、利益が全くないと分かれば、地域通貨への参加を見合わせるであろう。或いは、消費者の側からみても、上記の例のような10%が地域通貨という取引は煩瑣なだけで、「得」がないとも考えられる。ここに別の業者が現れ、彼ないし彼女が、私が売るのと同じCD-Rを単純に一割引きで売るとしよう。そうすれば、消費者は、そのCD-Rを、私から180円+20LETSで買うのではなく、彼ないし彼女から180円で買うことを選ぶであろう。
また、簿記会計において地域通貨の分をどう処理するか、税務上はどうか、といったことも重要な課題であり、研究の余地がある。全国の地域通貨においては、課税されている例もあれば非課税の例もあるようである。が、税金を(例え一部であれ)地域通貨で支払うといった可能性がないならば、地域通貨を扱う自営業者や中小零細企業にとって、地域通貨による所得は単に負担となる。このような場合も、その自営業者や中小零細企業地域通貨への参加をやめるであろう。「得」がなく「損」をするからで、そのような非合理的な選択を続けていては経営が成り立たないからである。
ここで、地域通貨は本質的な困難に出会う。つまり、ボランティアや遊戯に近い活動への評価としては良いが、リアルな商品経済においてそれを使うことは、経営者にとって致命的だという点である。どのような地域通貨であれ、この欠陥を克服しない限り、自営業者や企業の参入は望めず、故に拡大したり「産業連関を内包」したりすることもない。
問題は、地域通貨が表現する価値のステイタスが曖昧だということであり、もっとずばっと言ってしまえば、(まだ)地域通貨では喰えないということである。遠い未来には地域通貨で喰えるような社会になるだろう、と君は言うのか。しかし、我々は、いつまで待てばいいのか? 待っている間に、餓死してしまう。倒産してしまう。
だから地域通貨を構想する者は、農民や賃労働者や自営業者や中小零細企業の経営者の立場になって、事業の運営、経営に致命的な打撃とならないような仕組みを発明せねばならない。取引すればするほど、実際上は損をするような経済ならば、成り立たない。その地域通貨が広く使える、多くのモノ・サービスと交換できる貨幣にならない限り、その通貨は夢想や遊戯の領域に留まるであろう。そこから現実のシビアな経済、経営、労働の世界に入っていくには、まだまだ工夫が必要である。この点を克服した地域通貨の存在を、私は寡聞にして知らない。