人と人を結びつける媒体(メディア)としての貨幣の機能を考える。

貨幣、国民通貨、例えば「円」を考えると、「日本国内であれば、どの商店・企業でも受け取って貰える=それをモノ・サービスと交換できる」、「見知らぬ他人とモノ・サービスを交換できる」という機能がある。この見知らぬ他人とというところが重要で、例えば私が、マルエツでお酒を買うとして、別にレジ係の店員と顔見知りでなくても構わない。(顔見知りでも別に構わないのだが。)そして、そのような経済主体として私は、合理的且つ功利主義的に、つまり自分の効用を最大化させる選択をする。私がマルエツで酒を買うのは、そこで買うのが一番安いからであり、ウエルシア薬局やリブレ京成で買うよりお得だからである。そのような経済主体、消費者としての私は非情で冷酷である。私がマルエツで酒を買い続け、木内酒店では酒を買わないという選択を繰り返した結果、もしかしたら木内酒店の経営が傾いてしまうかもしれない。しかし、消費者としての私はそのようなことに責任を負わないし、そのような事態が起こるかもしれないことを顧慮しないのである。国民通貨、円を使う消費者としての私は、匿名的であり、無責任であるといえる。
地域通貨(ここではLETSを考える)の場合、貨幣を自分で発行できるというのはいいが、誰もが受け取ってくれるわけではない。自分と信頼関係にある他者、或いは、その地域通貨共同体と契約関係にある個人や商店しかLETSを受け取ってくれないのである。この場合、売り手と買い手が全くの見知らぬ他人同士、よそよそしい匿名の関係だとは考えにくい。地域通貨での取引(交換)は、互いに見知った信頼ある間柄での交換であるということができる。
その代わり、地域通貨で買い物する消費者は、匿名的で無責任という特権を捨てなければならない。地域の商店が倒産しても知らん顔というわけにはいかないし、安い商品なら何でもいいというわけにもいかない。地域通貨を使うことで、選択の幅は劇的に狭まるから、円を使う場合より「得」だとは限らない。損得でいえば、「損」な場合だってあるかもしれない。というか、そのような場合が多いだろう。
人と人を結びつける媒体(メディア)としての貨幣の機能、西部忠が指摘したような地域通貨LETS)の機能とは、国民通貨に比較すれば限定的で「不自由」なものだ。そのような貨幣での取引(交換)を希望するかどうかは、個々人の自由な選択になる。