攝津正随筆

働きたくないから働かない。シンプルな選択だが、或る意味恐ろしいと思う。
今日は芸音音楽アカデミーに、ドラムの生徒さんが来たので、練習した。それから公務員試験や経済学の本を見せてあげた。
母親は譜面の整理をしている。私はマイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』を聴いている。

子供の学資のために働きたくないし、子供自身働かねばならぬのは不幸だと思うので子供を作らない。不幸の連鎖は自分の代で終わりにする。系列の終焉だ。

働く意欲が薄い人が社会問題になっているそうだが、余計なお世話という感じだ。働く意欲、生きる意欲なら実際まるでないよ。そうしてもう36歳だ。まともに働いた経験もなく。人的資本理論からすれば、投資(学資)の無駄遣いということになる。大学、大学院に行ったのが何の意味もなかったということになる。母親は意味はあったと言う。しかし、私自身は無かったと思っている。
哲学者、作家にもなれない。音楽家にもなれない。
普通の労働者にもなれない。いや、ならない。
自営業も難しい。つか無理でしょ。
八方塞がりだが、死を待つしかない。座して死を待つのみ。

私は、生存は無意味にして苦痛なりと語った。なお生きているのは、親が生きているから。苦痛な生存を我慢している。死という解放を我慢している。何もかもが馬鹿らしいし、何にも意欲も情熱も持てない。生きる意欲がない。まるでない。
生きる意欲がないのに生きているのは馬鹿らしいと思う。思うが、そう思ったからといって死ねるわけでもない。だから死を待つ。そのうちいずれ、訪れる。

失敗が通則である。成功が例外である。
滅亡が通則である。適応が例外である。