生きる意欲がない。(2011年1月30日(日))

度々書いているが、働きたくない。なので働かないが、働きたくないので働かないとは何たる我儘かとも思う。思うが、働く気も動く気もない。座して死を待つのみである。なかなか死なない/死ねないが、待っていればいずれ必ず死はやってくるものだ。だから待つ。気長に待つ。それが明日かもしれず、30年後かもしれないが、待つ。

私は、人生は無意味にして苦痛なりという価値観の持ち主だ。積極的に生きる動機はないし、積極的に生きてはいない。消極的に生きている。つまり、死ねないのでやむを得ず生きている。こうした言い方は難病の人らに失礼かとも思うが、正直な実感なので致し方がない。

生きる意欲のなさを反省すると欝になる。死にたくてたまらなくなる。だが、今死んではならぬのだ。親が生きている故。今はまだ、我慢しなければならぬ。馬鹿げたことだと思うが。生に堪えねばならぬ!

幾ら我慢したところで褒賞はないが。生きているということは何の自慢にもならぬが。私は実質的には、既に死んでいるのも同様である。社会にコミットする動機も意欲もまるでないからである。事業というかたちでも運動というかたちでも社会にはコミットしない。ただひきこもる。私は、救われないひきこもりである。だから何だというわけでもない。ただ事実としてそうだ、というだけだ。

無意味に堪えるのも苦痛である。暇潰しもそうそう面白いものはない。音楽を聴き、本を読むが、そうした営みも無意味だと思う。私は価値を生産しない。労働しない。労働を放棄/拒絶している。私は無為のまま死んでいきたい。それだけが唯一の願いである。