父への反抗

父への反抗、正確には父親達(Fathers)への反抗。
東浩紀宮台真司の『父として考える』への、子(=仔=個)の立場からの反論。
それは労働に関するもので、東や宮台のように考えれば、高学歴ワーキングプア、高学歴だめは全く救われないということだ。全て自己責任ということになってしまう。しかし、社会のあり方が大きく変動しつつあった時期に、将来どうなるかを見通せなかったからといって、そんなに責められるものだろうか? また、東は、自分は『動物化するポストモダン』を書いて現在の地位を築いた、他の数千人は何やってたんだ、と威張っているが、研究者らが皆が皆、『動物化するポストモダン』のようなものを書けるのだとしたら、逆説的に、稀少価値がなくなってしまうから、意味がなくなってしまう。東浩紀だからこそ『動物化するポストモダン』が書けた、そのことは代替不可能であるが故に、彼は現在の地位を築いたのではないか?
また宮台の持ち出す概念は、経団連が言うような「人間力」に限りなく近い。が、私は、敢えてそれを「高めない」ことを宣言する。(フリーター労組の原型となった組織PAFFの、「若者の人間力を高めない非国民運動」参照)。私は、徹底的にだめで、無能で、屑であり、社会的に全く無用なものである。不要物、ゴミとしてある。そのような生存を自分勝手に肯定する。父親達、東や宮台のあずかり知らぬ地点で、子らは自由に逃走する!