「救い」は個人的なことかもしれないが…

「救い」は個人的なことかもしれないが、かつてウーマンリブなりフェミニズムの人らは、個人的なことが政治的なことだと主張したのではなかったか?
それはまあ、いいのだが、今私がしたいのは「魂のこと」の話である。
私が「魂のこと」を考え始めたのは、ノーベル文学賞を獲った大江健三郎の長編連作『燃え上がる緑の木』を読んでからのことだった。この小説では、四国の村を訪れた若者が、「魂のこと」をしたいと発心し、新しい「ギー兄さん」になり、シンクレティズム的な教団を作るが自滅するまでのことが書かれている。私はこの長編を、大いなる共感をもって読んだのだ。
究極Q太郎さんから、今生きている人で尊敬する人は誰か、と訊かれて大江健三郎と答えたら、究極さんは怪訝な顔をしていた。私の答えが余りに「スクエア」だったからかもしれない。だが、私は本気であった。
大江は宗教者ではなく、文学者である。政治活動家でないのと同様、実践的信仰者でもない。芸術家である。しかし彼の書く小説は常に、深いレベルで宗教的である(とともに政治的でもある)。
彼の長編小説の中で、子供が大江的世界の構造を自覚し、それを「敗北主義」とする場面があるが(確か『宙返り』に出てくる)、敗北主義を自覚した子供らが勝利への道を歩む作品は遂に描かれることがなかった。我々は敗北主義は知り尽くしているが、勝利は知らないのである。
大江健三郎の小説は「魂のこと」を考える人には必読だと思う。