至福直観
至福直観とは中世ヨーロッパの神学者トマス・アクィナスの概念で、彼の著書『神学大全』にある。『神学大全』は膨大にあるのだが、中公バックス世界の名著のトマス・アクィナスの巻で読むことができる。
で、別にトマスはどうでもいいのである。
私が言いたかったのは、2ちゃんねる等で、攝津をロスジェネ世代と見るのは誤りで、遅れてきたバブル青年なのだという意見があったことだ。私がロスジェネ世代ではないというのには同意する。しかしバブル世代と同じという意見には承服できない。むしろ私は、打ちのめされており且つ同時に至福を求めるという意味で、ビート・ジェネレーションなのである。ヘンリー・ミラーの流れの末裔としてのジャック・ケルアックは大好きな作家だし、もともと大学に入った頃はウィリアム・バロウズの研究がしたいと思っていた。
私が大学時代、「妄想」していたのは、至福直観、つまり、神を観る直観とは「死の経験(体験)」そのものだということだ。
もう一つの「妄想」は、もし存在がスピノザ=ドゥルーズ流に無限に多数多様であり、そして唯一(一義的)であるならば、この世とあの世、彼岸と此岸の差別もなくなるだろうということだ。ありとあらゆる死者らが蘇る。そして我々は常に既に死んでいる。
これらの「妄想」は私のオリジナルな思想だったと思うが、学部でも大学院でも論文という仕方で公表することはできなかった。何故ならば、根拠も何もない単なる思いつきであり、その意味でアイデアに過ぎず、体系化して展開できるものではなかったからだ。何となくそう「感じる」、ただそれだけだった。
というようなことを思うに、私は本当に、大学内の(アカデミズムの)研究者には向いてなかったんだなーと思う。
もう一つ。書こうと思ったのは、ひびのまことさん(id:hippie)が、「救われる」というのは個人的な事柄なので関心がないと述べていたこと。私は逆に、「救われる」という個人的な事柄にしか関心がないのだ。私は救われるだろうか? 常にそう問うてきた。
この場合の「救われる」というのは、アメリカのビート・ジェネレーションがチャーリー・パーカーのビバップや仏教へと「逃走」したように、何か外部を求めることである。或いは至福を。至福直観を。
何が言いたいのか自分でも分からなくなってきたが、私は、至福は生の内部にあると思っており、そのように考えるとき生と死の区別は意味をなくすと思うのである。うまく言えないのだが。或る種の経験(体験)が、至福を開示すると考える。どのような体験であるかは、まだ分かっていないのだが。
頭が混乱してきたので、一旦ここで送る。