社会構築主義とジャズ

後藤雅洋さん(id:eaglegoto)記:

その過程で、前記の「ジャズ的価値を支える間身体的共感の場さえ立ち上げれば、ジャズの再構築は可能だ」という楽観論は私の中で急速に現実性を失っていった。新しいジャズ自体のエネルギーが明らかに減退しており、それはミュージシャンの力量や調子ではいかんともしがたい原理的な理由によってもたらされた現象だという確信である。かつては圧倒的パワーを発揮した、「黒人の身体感覚と西欧音楽との融合」という装置が既に機能していない、あるいはエネルギーを消費し尽くしてしまっているのである。

重要なのは「黒人の身体感覚と西欧音楽との融合」という装置が既に機能していない、あるいはエネルギーを消費し尽くしてしまっているというくだりだと思われる。
黒人、より正確にはアフロ・アメリカンの「身体感覚」に依拠してきたジャズが、もはやそうできなくなりつつあるということ。「身体感覚」(黒い、黒っぽいというような)が変容、組み替えの対象であること。黒人の黒人性そのものが、そのアイデンティティそのものが、脱構築、或いは系譜学的探究の対象だということ。
勿論、白人もジャズをやってきたし、私ども黄色人種(アジア人)もジャズをやる。人種なり民族の壁は、あるのだとしても、常に有効だとは限らない。しかし、黒人(アフロ・アメリカン)の身体感覚は、ジャズにおいて、常に特権的な参照の対象であった。
問題は、後藤さんの語る装置の機能不全が歴史的なものなのか、原理的なものなのかということだ。アメリカ黒人とその歴史を特権化した語りが、どこまで正当化されるかということだ。