攝津家の物語

石橋幸雄はソニー・ロリンズが好きで、母親によれば「うんこスタイル」でブリブリ吹いていたのだという。そして、ロリンズが頭をモヒカン刈りにして来日した時、バンドにトラ(代役を意味する隠語)を入れ、ロリンズを聴きに行った。
幸雄は北海道出身で、親が病弱だったため幼くして(中学生くらいから)炭鉱で働いた。幸雄が炭鉱に行くと、他の鉱夫らから、「坊や、何しに来たん?」と言われたという。炭鉱労働は後に、肺病として幸雄の身体を苛むことになる。
幸雄と照子は、大阪を拠点にクラブやキャバレーでバンドマスターをやっていた。幸雄の健康が蝕まれるまでは、上手くいっていた。だが、幸雄が肺結核になり、次いで結核治療のためのパスという薬の飲み過ぎで胃癌になった。照子は幸雄の治療費も含め、稼がねばならなくなった。
幸雄は親分肌で、バンドのメンバーらを連れておごりで飲みに行ってしまうので、石橋家はいつも貧乏だった。
幸雄はそして、先物相場に手を出し失敗、全財産を失う。その後、また稼ぐが、今度は金についての豊田商事の詐欺に引っ掛かり、やはり全財産を失う。照子は、攝津一族の親戚らから、「馬鹿」と罵られた。
そして子供(私=正)が生まれるが、幸雄が家庭内暴力=DVに走るようになり、離婚する。そして、照子は攝津の姓に戻った。
私が2-3歳の頃のことだと思うが、不動産業を営む吉野孝和が攝津照子に近付いた。当初、照子は孝和の顧客であった。照子は孝和から幾つか土地を買い、その幾つかはまだ、照子名義で保有している。日出や塚原の土地など。やがて、孝和と照子は結婚したが、吉野姓ではなく攝津姓を名乗った。
私が知っている限り、二人の夫婦生活は悲惨なものだった。双方共に酒乱に近く、酒が入ると怒鳴り合い、殴り合いの喧嘩になり、警察を呼ぶようなことも何度もあった。私達攝津家の夫婦関係、親子関係は悲惨過ぎて書けないことが多い。私が家の様子を大学の友人に話すと、友人は驚いて「よくそんな酷い環境で勉強できたね!」と言うのだった。勿論、勉強など出来ていなかった。
攝津孝和は、作詞家としてやっていきたかったらしく、せっつ夢路のペンネームで詞を書いたが、ほとんどは攝津照子が曲を付けた。勿論ヒットはしなかった。父親は長い間、芸音音楽アカデミーの「理事長」を名乗り、働かなかったが、或る時、茨城の鹿島に行って、不動産の仕事で数年で数千万〜一億くらいの金を儲けた。そして、大分に住んでいた私と母親を、関東に呼び寄せた。一家三人と、飼い犬のチロで、父親の車に乗って、何日も掛かって、関東までやってきた。そして、千葉県に住み着いた。