攝津家の物語

孝和が鹿島で儲けた金は、二和向台の持ち家物件の住宅ローンの頭金で消えた。私達は、働かなくてはいけなくなった。幸い店舗住宅だったので、店を開くことができた。当初、祖母=攝津ミキが、花屋さんがいいと言ったので、花屋として「フルール」を開くが、全く客が来ず、技術も無いから花も枯らしてしまって、閉店する。その後、「居酒屋フルール」として営業を開始し、照子が一日3万円を目標に早朝から深夜まで働いた。従業員も何人か雇っていたと思うし、給料未払いで労働争議になったこともあったと記憶している。まあ、それは解決したのだが。しかし、攝津家の生活、経済は常に厳しかった。攝津家の収入は、居酒屋フルールと、カラオケ教室、楽器教室主体の芸音音楽アカデミーの二本立てだったが、そして、芸音音楽アカデミーには、最盛期には百人以上の会員さんがいたのだが、十数年前のことだと思うが照子が交通事故に遭った。芸音音楽アカデミーつまり我が家の隣は京葉ガスなのだが、その車が背後をよく確かめずにバックして照子を跳ね飛ばし、照子は店の前の県道まで飛ばされたのだ。もし車が来たら轢き殺されていたところだったが、幸い軽症で済んだ。打撲で済んだ。だが、後遺症で腕が痛み、もろもろの公民館への出張レッスンを止めざるを得なかった。芸音音楽アカデミーの衰退が始まるのは、この頃からである。