私はクィア主義者である。…

私はクィア主義者である。しかし、私の保守的な生活内実からすれば、この革命的な思想は似合わぬ衣装だと思われるかもしれぬ。だからそのことを説明せねばならぬ。
クィア主義ということで私が重要視しているのは、「性的指向性自認の可変性、揺らぎ」「性的嗜好の概念の豊かさ」「性、性現象、性的活動の多様さ」である。私のクィア主義は、直接ドゥルーズ=ガタリからきている。つまり、多数多様性と生成変化の哲学の必然的な帰結としてある。ガブリエル・タルド流にいえば、性という現象を、信念と欲望の流れ、膨大な模倣と発明の過程として理解しようということなのである。
性的指向は先天的であり、変更不可能であるという主張はドグマであり、証明されてもいないし、日々の経験からも反駁されている。私が愛する人の性(性別)がどのようなものであるかは、先天的に決まっているわけではなく、可変的であり柔軟である。性自認にしても同じである。今私は、暫定的に男性性を引き受けているかもしれぬ。だがそうだとしても、潜在的なレヴェルで女性性や「他(多)」があるというのも事実なのである。女性への生成変化が根本的である。女性への生成変化というのは、性転換することではないし、男性性を廃棄することでもない。潜在的なレヴェルで執拗に存続する女性性の多様な響きに耳を澄ますということなのだ。
今、便宜的に男/女という二項対立、二元論を前提したが、しかし、この対立の下には、より複雑で微細で多様な差異のネットワークがある。生物的なレヴェルからしても社会的なレヴェルからしても、身体のレヴェルからしても信念や欲望のレヴェルからしても、性は「二」に解消されるものではない。男/女という概念枠で日常語るのは、単に便宜からである。現実は、無性を含めた多性としてある。便宜からというのは、私達が言語を用いて語るよりほかない「言語人」だという事実である。言語は、身体レヴェル、精神レヴェルの多数多様な差異ネットワークを、粗雑な対立に変えてしまう。その言語を用いて語るよりほかないというのが最大のジレンマである。例えば私は、同性愛と異性愛について語り、「或る男の子を愛している」等と語る。だが、それらの用語は吟味されねばならない。微視的に見れば、或る存在者が別の存在者に欲望を抱いている、というだけであり、その属性については慎重に語らねばならない。だが、通常私達はそのような繊細さを持つ余裕がないため、同性愛、異性愛、或る男の子等々と語るのである。自分達の身体や精神(信念と欲望)を検証してみれば、そこにあるのは絶対的で爆発的な多数多様性と生成変化である。