クィア主義の…

クィア主義の「政治的」側面をもっと詳しく見ていこう。
クィアは、存在論であるより以前に、日常言語である。つまり、それは「オカマ、変態」を意味する英語であり、そのように蔑称される者ら自身が、「そう、私は変態(オカマ)。それで何が悪い?」と開き直る契機こそ、クィア的政治なのである。
このことは幾つかの含みを持つ。その一つは、アイデンティティ・ポリティクス、アイデンティティに依拠した一切の政治への批判(批評)である。クィア政治の対極に、ゲイ・アイデンティティ、ゲイ・プライドの言説がある。「ゲイ」というのは、「ホモセクシュアル」という用語に替えて、同性愛者自身が自らの呼称として「発明」したもので、喜ばしい、楽しいという意味がある。つまり、社会、社会の多数派から否定されることの多い少数派としての同性愛(者)をセレブレイトしようという意図がある。ミシェル・フーコーが、私達は皆、懸命にゲイにならねばならないと語ったのは、彼自身も言うように、万人が同性愛者になるべきだというような意味ではなく、あの模倣と発明の過程に身を投じるべきだ、という意味なのである。言葉を換えれば、生存(実存)の美学ということだ。「別の仕方で生きること」の探求。「外」の思考/生/性への誘い、あてもない無際限な彷徨などである。
私見では、クィア政治は、ゲイ・アイデンティティやゲイ・プライドの言説に重要な異議を唱え、根本的な批判を提起するものであるが、それを完全に否定するものではない。私の考えではゲイとクィアは表裏一体の関係にある。詳しくいえば、「喜び」という名で自己肯定する政治と、「変態で何が悪い?」と開き直る政治としてある、ということである。クィア政治がアイデンティティ・ポリティクスの何を批判するかといえば、男性同性愛者の特権性(ひびのまことid:hippie)の語る「マイノリティの中のマジョリティ」)、レズビアンバイセクシュアル、トランスジェンダー等の二級市民化である。ひびのまことは、「属性」で結集するのではなく、「課題」で結集すべきことを社会運動の理念として語っているが、それは理のあることに思える。そのように語ることは、例えば或る属性(仮に男性同性愛者としよう)の自助グループの存在意義などを否定するものではない。批判的政治のレヴェルと自助グループ実践のレヴェルを区別しているだけである。
ところで、クィア主義について、それが最近の流行に過ぎないとして批判されることがあるが、例えばウィリアム・バロウズはそのキャリアの初期においてQueerという題名の小説を書いていた(邦題『おかま』ペヨトル工房)。また、クィア主義が海外からの輸入であると批判されることもあるが、その場合、あの「オカマの東郷健」という偉大な先駆者のことが忘れられている。クィア主義は日本的文脈でも十分通用するのである。

おかま

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