不眠の夜 思い出話

今日も眠れぬ。寒かったり、暑かったり、わけわからぬが、とにかく眠れず、目が冴えるばかりなので、思い出話を書こうと思う。

まず、私が、ベーシック・インカム(基本給付)に懐疑的な理由を述べたいと思う。それは、過去に左派における地域通貨の世界的なブームと退潮をリアルタイムで、その真っ只中で経験したからである。柄谷行人のNAMが有名だが、NAMに限らず、例えば吉本隆明周辺でも、海外の左派でも、地域通貨オルタナティブ貨幣はブームになっていた。みんなそれの「可能性」を夢見がちに語り、その実践に没頭し、やがて幻滅し失望し去っていった。その過程を熟知しているから、どんな幻想も一過性のブームに過ぎないのなら、意味がないではないかという思いがある。ベーシック・インカムで、各個人に生活できるだけの現金を給付するといっても、国家権力を取らずにどうやってそれを実現するというのか。幾ら生存の無条件肯定の倫理を語ったところで、権力は取れないし、財源も捻出されない。それをどう考えるのか、少なくとも私は自分が納得できる議論を聞いたことがないので、懐疑的である。

次に、私がNAMにおいて、権力闘争、路線闘争に敗北した経緯について述べたい。もう十年も前の、崩壊した運動を語ることに何の意味があるのか分からないが、冒頭述べた如く眠れないので、思いつくことを強迫的に書いていこうと思う。
NAMはその解体期に、抜本的改革を唱えるグループと、そのグループから、守旧派抵抗勢力とみなされたグループに分かれていた。私は後者に属していた。前者の代表格は、当時NAMの事務局長であった浅輪剛博さんだった。
話はずれるが、西部忠さんが、杉原正浩さんを批判したメールで、彼のことを「NAM内務官僚」と呼んでいるが、「NAM内官僚」の間違いである。われわれ(杉原正浩さん、生井勲さん、倉数茂さん、私など)はNAM内官僚として、NAMを公正に運営しようと努力していた。抜本的改革を唱えるグループは、システム化の努力の一切を、官僚主義として一掃しようとしていた。
確かにわれわれNAM内官僚の視野は狭く、NAMという組織を維持するだけになっていて、対抗運動としてNAMを元気にする方向は余りなかったかもしれぬ。だが、信義や道理をぶち壊すようなことに同意できなかったのも事実である。
後藤学さんが、NAM解体期における「仮想敵」として生井さんを想定していた旨のことを仄聞したことがあるが、もしそうだとしたら、MLのみのコミュニケーションの不幸というべきだろう。実際の生井さんは、文章においては筋を通す「官僚」だが、人物としては柔軟で適応性に富んだ人であった。
柄谷さんから、倉数さん、生井さん、私にDMが送られ、自己批判、転向が迫られた。倉数さんはそれを拒絶し、生井さんは自分の頭で考えた上で転向し(つまりQを放棄し)、私は全く参ってしまった。そういう出来事があった。

柄谷さんが、「Qは終わった」というエッセイを執筆済みだという情報は、比較的早い段階から事務局長の浅輪さんを通じて事務局員には伝えられていた。しかし私は、Qを守らねばならぬという立場から、そのエッセイの公表を妨害すべく全力を尽くした。けれども、そのエッセイは数週間の逡巡を経て公開され、ウェブサイトにも掲載された。それを巡って争いが起こり、泥沼の様相を呈した。そしてNAMは解体、崩壊した。

しかしその私が、NAM解体後に、Qを破壊すべく活動したのは、歴史の皮肉と言うほかない。何故私がそうしたかについては、簡単に述べることはできない。「Q-NAM問題」というエッセイを書いているので、そちらを参考にしてほしい。とはいえここでも大筋を述べておけば、弁護士の柳原敏夫さんから、中島秀樹さんが漏洩したlets_think MLの断片を渡され、それを読んで激昂したというのが真実である。私は、Qの幹部に、西部さん、宮地剛さん、穂積一平さんに裏切られたと思ったのだ。それが2003年の出来事である。私はQのソフトに不正アクセスしてQ会員のメールアドレスを詐取し、Qを脱退すべきことを訴えた。その結果、精神的に不安定であった一人の方が亡くなった。私は後悔したが、遅かった。

欺瞞は幾重にもあった。誰が誰を騙しているのかも分からない、混迷状況だった。その状況についてはよく吟味検討が必要だが、今晩はとりあえずここで送ることにしたい。