補足的考察

先程の記事を補足すれば、私も、大勢としては(つまり長い目でみれば)近代的な主権国家国民国家は衰退していくだろうと思う。しかし現状は過渡期であり、まだ露骨に近代的な「主権」原理が幅を利かす場面も出てくる、ということだ。

もう一つ、資本主義について。親資本主義、反資本主義、非資本主義という態度について述べようと思う。
社会主義共産主義圏の大半が崩壊した現在、グローバルに世界を覆っているのは世界市場という信仰、世界化された資本主義というありようだと思える。
そこで改めて、資本主義の展開を積極的に肯定し、それに寄り添う立場と、資本主義を「破壊」したり転覆したりしようとする立場と、資本主義から「脱出」しオルタナティブを求める立場があり得ると思う。それをそれぞれ、親資本主義、反資本主義、非資本主義と呼んでみる。私の立場は明確に、非資本主義である。つまり、破壊、転覆、闘争などは好まないが、資本主義の押し付けてくる画一的な集団的主観性(例えば、宝島社の『Sweets』がいい例だろう)も好まない。
私は主に、ジャズを好んでいるのだが、ジャズについて考察してみようと思う。
ジャズは商業音楽である。つまり、資本主義的である。しかし、同時に、セールスが全てではない。
セールスが全てではないが、しかし他方、存続もしていかねばならぬ。ここに全てのジャズミュージシャンやジャズ関係者(ジャズ喫茶の経営者やジャズ雑誌の編集者など)の悩みがある。
例えば大西順子が、渋谷のBunkamuraオーチャードホールで9月30日にライヴをやるのだが、その広告をうちの母親が朝日新聞の朝刊で見て驚いていた。なんとソニー・ロリンズの来日公演(7000円)より高かったというのである(9500円)。勿論、私ども貧民は参れない。行きたくとも行けない。
そのことは残念だが、他方、ペイするためには仕方なかったのだろうな、とも思うのである。
他方、荻窪ヴェルヴェットサンを拠点とするスガダイローのように、自身のライヴを積極的にUstreamで配信しているミュージシャンもいる。それも、結局は、販売促進になる。スガダイローは、来月、『渋さ知らズを弾く』というCDを発売する。(言い忘れたが、大西順子オーチャードホールでのライヴも、新作CD『バロック』の発売記念公演である。)
CDとライヴ、ライヴとCDとUstreamなどが複雑に関係して、現在のジャズ情勢は成り立っている。
ジャズ批評にしても、有料のジャズ雑誌はあるが(『スイングジャーナル』が休刊したとしても)、無償のウェブで公開されている媒体としてcom-postや「快楽ジャズ通信」などがある。
何をぐだぐだ言っているかというと、私の関わっているジャズという音楽も、資本主義との関係で極めて苦境に立たされ、変容し、複雑な情勢になってきているということである。
それは今に始まった話ではなく、少なくともビートルズ、いや、エルヴィス・プレスリーにまで遡らねばならぬ。つまり、ロックという大衆に滅茶苦茶「売れる」音楽の誕生、それとの関係で自らを考えねばならぬということで、それを一番徹底したのが、かのマイルス・デイヴィスであった。
ロックに対するジャズ側の反応は、当初、嘲笑であった。ディジー・ガレスピーに「スクール・デイズ」という曲があるが、これは、ロックの音楽的な単純さを揶揄し諷刺したものである。しかし、歴史は、ディジーではなく、マイルス・デイヴィスの正しさを証明した。
フリージャズとは違って、マイルスは、ジャズは売れねばならぬと考えていた。彼は、何故自分よりマイケル・ジャクソンが売れるのか、などと真剣に自問する人間であった。
例えば、M.J.Q.ジョン・ルイスなどは、メンバーのミルト・ジャクソンなどが漏らした経済的な不満に対し、ポップスターは芸能人だがわれわれジャズメンは芸術家なのだから仕方がない、と応答していた。しかし、マイルスはそのように考える男ではなかった。彼は、ロックやポップスが自分の音楽より売れるとしたら、自分の音楽にない何かがそこにあるからだと考えた男であった。かくして、マイルスは自己の音楽を更新し続けた。
そのマイルスの描いた軌跡も「歴史」になった。私どもはそれ「以後」(ポスト〜)の歴史的境位を生きている。今偶然、ウィントン・マルサリスの『ブラック・コーズ』を聴いているが、ウィントンも「マイルス以後」を真剣に考えた男であった。そして彼の出した答えは「ジャズの伝統への回帰」であった。しかし、それは、ジャズが半ばクラシックのようなもの(伝統芸能)になるということでもある。商業音楽としてのジャズというテーゼを考える時、複雑な状況が現出する由縁である。

バロック

バロック

渋さ知らズを弾く

渋さ知らズを弾く

ブラック・コーズ

ブラック・コーズ