図書館通い

借りてきたのは、江藤淳著作集第三巻『小林秀雄』、丸山眞男集第一巻 1936-1940、『吉本隆明が語る戦後55年第一巻 60年安保闘争と『試行』創刊前後』、フェリックス・ガタリ『カオスモーズ』。
吉本を除いて読み始めたばかりだが、江藤淳のは批評らしい批評という印象。ふと、以前の柄谷行人を思い出す。ガタリの本は原書で読み込んでいたはずだが、ちゃんと理解していなかったのかな、と思う。丸山眞男は徂徠論が入っているやつ。
吉本の本で奇妙に感じたのは、彼が「超資本主義的」と呼ぶのが少しも「超」資本主義ではなく、ごく普通に資本主義ではないか、ということだ。
例えば、音楽の演奏、ヴァイオリンの演奏について、演奏者がどれだけ一所懸命精進したかなどは問題にならず、消費者の嗜好だけが問題になるような事態を超資本主義的というのだが、それって超資本主義的じゃなくて資本主義的じゃん。
彼が考える古い資本主義というのはかなり通俗化、粗略化された労働価値説的が通用する世界みたいだ。つまり、商品(モノ・サービス)を生産するのに要した労働の量で価値が決まるというような。確かにそのようなものを資本主義なりマルクス主義的というなら、そういう段階は過ぎている。だが、それは資本主義が「超資本主義的」になったということも、社会主義共産主義(やアナーキズム)が無意味になったということを意味しない。むしろ逆であろう。
昨日読んだ本などで明瞭なように、ポスト・フォーディズムの知的・認知的労働は、労働者側に無限の柔軟さ・適応能力を要求するものであって、管理(コントロール)が微に入り細に入り行き届くような世界である。そこで確立されるべきは、貨幣を所有する消費者の消費する権利ではなく、資本主義的消費にお構いなしに生産・創造される諸価値の権利である。
と思うのだが、どうだろうか。