価値を巡って

僕の持論では、これまで資本主義は高級なものを助けてきたわけです。しかし超資本主義の社会では、高級なものはあまり意味をもちません。それが最も顕著に表れているのは音楽と文学の世界じゃないでしょうか。これまでは、たとえば幼児のときから修練を積んだバイオリンの独奏者は高級であり、価値があるとされてきました。幼少のころからバイオリンを習い、年頃になったら国際コンクールに入賞するような人が、一人前の演奏家としてこれまでは尊重されてきたわけです。
ところがいまは音楽の価値を決めるのは、聴く人本位となっていますね。いくら自分では高級だと思っても、結局は聴いてくれる人がいなければ意味がありません。世界的なコンクールで一等をもらっても、コンサートを聴きにくる客がいなければ、演奏家として成り立たないわけです。どれだけいい演奏家だと言ったところで、消費本位の社会では人から尊敬されないことがあり得るわけです。
おかしなことかもしれませんが、社会が聴く人本位に移ってきたことは事実です。それでもやっぱり自分はバイオリンの修行を積むという人はいます。ただし以前のようには尊重されないから、どうしても勢いが少し鈍ってくるでしょう。
これまでの資本主義は、企業家もこういう音楽家を大切に扱ってきました。ときには演奏や練習を強制することはあったでしょうが、それで技術が向上するような利点もあったわけです。いまでは以前みたいに企業が演奏家やアーチストを支援したり鼓舞するようなことは、かなり少なくなっているんじゃないでしょうか。
せっかく高級な芸術をやっても、人から鑑賞され尊敬されなければ立つ瀬がない。高級な仕事をする人は、いまや誰かに助けてもらう以外に道はないのかもしれません。でもこれは経済的な必然だから仕方がないことだと思います。(吉本隆明前掲書、p134-137)

私が疑問を感じた吉本隆明の発言である。ここでは資本主義も芸術も、全く捉え損なわれていると思う。吉本の発言では、例えばクラシック音楽が廃れ、J-POPが隆盛するということは、「経済的な必然だから仕方がない」と捉えられ、商業的(コマーシャル)でない芸術家の存立する可能性はなくなる。これこそガタリが批判した「資本」の論理であり、本来豊富で複数的であり得る諸価値の世界を、市場という単一の価値基準に切り縮めてしまう行為と言わざるを得ない。
われわれに必要なのは、このような帰結を「超資本主義的」などと言って嬉々として受け入れることではなく、このような最悪の状況に抗うこと、草の根で抵抗し、生産と創造をゲリラ的に続けることである。