論壇、文壇への違和感

現代日本において支配的な言説空間=論壇、文壇の雰囲気に馴染めない。例えばゼロ年代においては、宇野常寛という批評家の言説が主要な参照先になったというが、私は彼を1ページも読んでいない。東浩紀デリダ論以外読んでいないし、読む気にもならない。『思想地図』も読んでいない。
現代日本の言説空間に適応して、そこで幾らかの収入を得るだけのものを書く、というのはどうも無理そうだという感じがある。文芸誌などたまに見ても、自分に何のリアリティもない。『現代思想』『思想』なども読まない。
浦島太郎のようだと感じる。感性が15年前でストップしたまま、成長していない、と感じる。つまり日本でいえば柄谷行人島田雅彦高橋源一郎、外国でいえば、フーコードゥルーズ=ガタリらが好きで、そこで止まってしまっているのだ。柄谷以降のもろもろの批評家の言説や、ネグリ=ハート、もろもろの新しい思潮などに親しんでいない。
ネグリ=ハートなども読んでみようとは思っているし、実際借りてくるが、よく分からない。ジジェクなども同じである。日本でいえば、『神話が考える』という話題の本を借りてみたが、よく分からなかった。
旧左翼、旧新左翼という馬鹿にした言い方があるが、それに倣えば、私などはさしずめ旧ニューアカ、であろう。それは80年代には意味を持ったが、いまや骨董品的価値しかないし、浅田彰も高踏的な審美的批評にひきこもっている。『逃走論』の浅田彰は死んだのだ。逃げろや逃げろ、と人々を煽った煽動屋はもういない。今の彼は孤独な芸術愛好者以外の何ものでもない。