私の原点=ルソー社会契約論批評

私の原点は、津田沼高校に入った年に、吉本隆明に依拠してルソーの『社会契約論』を批評したことである。
要点は簡単で、社会契約など擬制=虚構(フィクション)に過ぎない、ということだ。だがこれは、社会契約論者も含めて、誰もが認めることだろう。つまり、事実として現実に社会契約があったかどうかは問題ではない、論理的=理論的構成(後からの)としてあるのだ、と彼らは言い返すであろう。
だが問題はそこではない。私がルソーに反撥したのは、彼の社会契約の論理では、個々人は個別の意志を一般意志に譲渡してしまうので、社会が個人に対して決定的に優位にあり、全体主義的なものを許容するかのように思えたところだ。
そこで私は、個々人の自然権は完全には譲渡し得ないことなどを説いたが、それがスピノザ『国家論』(岩波文庫)の主要な論点であるのを知ったのは後のことだ。
スピノザにおいては、個々人の自然権が完全に社会体に譲渡されてしまうことはない。言い換えれば、個々人の力能は厳然と「ある」。社会にも何にも規制されずに「ある」。ホッブス(自然状態から国家への移行を必然と説き絶対主義を正当化する)ともロック(超越的な自然法を持ち出す)ともルソー(個別の意志は一般意志に吸収される)とも異なるところだ。誤解を恐れずにいえば、スピノザには抵抗権があるのである。抵抗権とは厳密にいえば、国家が法で承認する権利ではない。国家が不正で不当な時、その国家そのものに不服従する力能の発揚である。だから抵抗権は憲法学においても、論争の的になってきた。(RAMカタログの批評文を参照のこと。)抵抗権ないし革命権の起源はロックの『市民政府論』に求められてきたが、スピノザの『国家論』にもそれを読み得る。但しスピノザは両義的=曖昧である。柄谷行人も言うように、スピノザは民衆、多数者(マルチチュード)を肯定的に語ってはいない。というのも、スピノザの庇護者であった有力者が、煽動された暴徒に虐殺されるという出来事を体験しているからである。民衆、多数者は『エティカ』の語る「自由な人間」ではあり得ない。そのことを見据えたリアルな政治論が、『国家論』なのである。
まあ、そのような思考は中学、高校の頃から現在に至るまで数十年間、私において持続している。ルソーは嫌いだったけれども、もう一度読んでみよう、丁寧に微細に読んでみようと思って本の整理を始めた次第である。