9.11

柄谷行人の定本集や『世界史の構造』などを読むと、彼にとって9.11が大きな意味を持つ出来事だったと分かる。9.11直後に発表されたエッセイ「これは予言ではない」は、9.11のような出来事に対してもNAM原理やトランスクリティークの認識で対応できるという内容だったが、実際には無理で、NAMのほうが破綻した。
2003年にNAMが解体し、それから柄谷行人太田出版から出ている雑誌『at』への連載、岩波新書『世界共和国へ』出版、長池講義などを積み重ねてきた。海外でも旺盛な講演活動を続けてきた。その蓄積の成果が『世界史の構造』だ。
吉本隆明と比較すると、例えば吉本では国家論は『共同幻想論』ということになるだろうが、国家について考察するのに、柳田国男民俗学から展開するというのは制約が多過ぎる。まさに国家形態そのものを、「世界史的」に考察するには、吉本の概念枠組みでは狭過ぎるのである。
資本(資本主義)のみならず、国家やネーションも世界史的に考察したところに『世界史の構造』の画期性があり、また、政治的にみれば歯切れの悪さがあると思う。
彼がXと呼ぶものは現実化しない。それは世界宗教のうちに垣間見られ、歴史の中に突如現れるが、また消えてしまう。彼のいう統整的理念というのは、幻のようなものである。歴史において、ほんの一瞬顕れて、人々の心を掴むが、すぐに消えてしまう仮象。但し、必然的な仮象
贈与とか、国連、世界共和国の話は疎遠にしか聞こえない。それらはわれわれの日常意識がどうにかし得るものではないから。しかしそのことは、著者自身が一番分かっていることだろう。彼は、「国連を強くする運動がしたい」と語っていたというが、そのような運動などないということが、誰の目にも明らかである。

9.11とその後の戦争は柄谷行人やその他の知識人の認識枠組みを組み替えてしまった。
例えば、general boycottによって戦争を抑止するなどの言説が空疎な幻想だと分かった。彼の言葉でいえば、国家が「能動的な主体」であることが露わになったのである。民衆が幾ら反対しても、国家は報復攻撃を遂行する。世界規模でデモが起きても、アメリカの単独行動を制止し得なかった。
イラク戦争においても、国連は無力だった。柄谷行人もそれを目撃していた筈である。にも関わらず、彼は国連に希望を託すという。それは、ほとんど、希望はないというのに等しいのではないか。そうかもしれない。だが、認識を堪え抜かねばならない。
柄谷行人がNAMと共に、ネグリ=ハートらと共に放棄したのは、世界規模で民衆が自然発生的に蜂起すれば、国家と資本を揚棄することができるという幻想だった。民衆が何をしようと、何を語ろうと、イラクへの攻撃は無慈悲に実行された。それを止めることができなかった、という認識が、理念としての世界共和国=Xを招来する。それはもう、正しいとか正しくないとかが言えるレベルの話ではない。カント流にいえば、それは「超越論的」なレベルの話である。
長くなった。一旦ここで、切ろうと思う。