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私はニートだ、と思う。そして次の誕生日、二千十年五月二十一日からは、三十五歳になるので、ニートの定義からも外れ、中高年自宅警備という範疇に入る。『希望のニート』を読み返しているが、私は、こりんの言った、「われわれは支援する側ではなく、支援される側だ」という言葉を思い出す。その通りだ。ニートを支援しようとか救おうなどとはおこがましい。自分自身がニートではないか。無為無能で非生産的、非創造的ではないか。不毛ではないか。
そう思うと、当然憂鬱である。
だが、その憂鬱に堪えて、生きなければならないのだろうと、漠然と思っている。会社を辞めて、仕事のプレッシャーがなくなったから、鬱も治ったと思ったが、当然、治っていない。両親が忙しく働いているのに自分にはできることがなく指を咥えて眺めていると、鬱になってくる。抑鬱的であり、憂鬱である。自分は駄目人間だ、と思う。だが、他にどうしようもない。
中年過ぎても、親に寄生しているような人達に対する社会的蔑視には凄いものがあるが、私も含めて、そうとしか生きられない人なのだ。日本が豊かな先進国だから贅沢だ、などと批判しても無意味だと思う。働かざる者食うべからず、と言うが、働けない人も多い。そういう人に皆、死ねというのか。それならそれで、国立の安楽死施設を作って欲しい。きっと大行列ができるだろう。