失われた私を求めて

失われた私を求めて
二千十年二月四日木曜日
攝津正

超人が最早人間ではない何ものかであるように、超左翼とは最早左翼ではない何ものかなのだろうか。最早人間ではないものどもが、最早左翼とも呼べない何らかの〈共〉を創出する、そういう何やら胡散臭い営みが問題になっているのだろうか。
世紀末→新世紀の新たな諸条件、資本主義の諸条件、労働の諸条件が、皮肉にも人間-以上なのか人間-以下なのか分からぬ群れを膨大に生み出した。そのone of themが例えば加藤智大である。すが秀実ならJUNKとも言うであろうそのような層に属する人間は無数にいる。例えば、今ここで語っているこの私もそうなのだ。人間-以上なのか人間-以下なのか分からぬが、とにかく生きるに値するかどうかも誰にも分からぬ生を生き、日々を極小の生産/消費サイクルで回している者ら。例えば、派遣労働者であったり、パートタイマーであったり……属性が問題なのか? アイデンティティが問題なのか? 分からぬ。加藤と私を結ぶ線、それは人間以上以下なる不穏なるものである。増山麗奈からセックスに関するアンケートを呼び掛けられて、私は、もう十五年以上も異性(女性)と恋愛・性交していない自分に気付いて愕然とした(同性との性交渉なら、ある)。十五年以上というのは、余りにも長い。初恋、初めての恋愛以降、恋愛していないということだ。この孤独は、我ながら空恐ろしい。だが、見よ、これが現実だ! この唯一の恋愛経験、他者と何かを共有した思い出がなければ、私も加藤のように人殺しになっていたかもしれぬ。私と加藤とを隔てる壁は、確かにあるのだとしても、余りにも薄い。闇のソーシャルワーカーデス見沢はいざとなったらみんな頃して自分も氏ねばいい、と言う。だが私には、みんなを殺す覚悟も自分自身死ぬ覚悟も出来ていない。犯罪者になるか否かの分かれ目は、意志の強弱なのか? 腹が据わっているかどうかなのか? それを人倫と言うべきなのかどうか分からぬが、或る躊躇いが私の中にあり、それがみんなを殺そうとすることを中止させる。他者を直接物理的に傷付け殺害するというのは、超えてはならぬ一線のように思う。だがそのような人倫なるものが、捏造された物語でしかないとしたら?
フーコーは、人間の形象を構成する要素として、言語、労働、性を挙げた。この三つの交通形態の全てが塞がれたなら、その人は人ならぬ人になってしまう。言語──加藤は携帯掲示板に投稿し続けたが誰からも応答がなかった──、労働──「ツナギがない!」──、性──非モテ──、加藤は三つの要件を満たしてしまっていた。そして私も? 恐らくは? ニーチェは、発狂寸前に書いた自伝『この人を見よ』で自分はダイナマイトなのだと語っていたが、私もまた(自爆テロ用の?)爆弾なのだろうか? いつか爆発して無関係な市民を殺傷するのだろうか? 近代的自我なり「私」が崩壊した統合失調症的?境界例的?世界を生きる私達JUNKの生/性/死は、もはや人間的なる安定性を欠いたものになってしまっているのではないか? one of us, or JUNKは「こんな社会は最低だ、最早殺すしかない」と叫び、外山恒一率いるファシスト団体「黒い旅団」の勉強会に参加する。もはやファシストか反動になるしかないのか? 他の選択肢は? 「人間的な、余りに人間的な」ヒューマニスト左翼(良い人=ソフト・スターリニスト)にはもう留まれぬとしたら、何になればいいのか? 超左翼?