補完労働としての芸術活動

ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』に、運動を労働と自由活動に分けているくだりがある。例えばハンナ・アレントにおいても、労働と活動は分けられているのであるが、売れない芸術家の労働は労働といえるのかというと、少なくとも賃労働ではないだろう、と思う。賃金が支払われていないから。芸術家の創作活動、及びその準備期間は全くの不払い労働(アンペイド・ワーク)である。
話は飛ぶが、地域通貨補完通貨と呼ぼうという意見がある。確か『マネー崩壊』のリエターだったか、が言い出していたことだと記憶しているが、補完通貨という考えが前提としている、曖昧な東洋思想(陰陽)やユング心理学はいかがわしい。しかし、国民通貨を駆逐するのではなく共存するものとしての補完通貨、という提言は一考に価する、と思う。
同様に、芸術を、非労働、労働ならぬ「活動」に位置づけるのではなく、補完労働として位置づければどうか、と思った。一種の副業ということだが、単なる副業ではなく、本来的な意味なり価値を創造するものでもある、ということで。
補完労働は、賃労働を補完し、人間の生を十全なものにする、と考えてみる。補完労働には補完通貨が支払われる。補完通貨では、コミュニケーションを買うことができる。
というふうに考えてみた。