賃労働百七十二日目:労働を考える

9:10?-19:00.
朝、強風で武蔵野線が止まる。これしきの風で?と訝しく思うが仕方がない。会社に連絡を入れ、新浦安に着いたらまた電話するように事務のOさんから言われる。電車は30分以上遅延した。新浦安に8:40頃着いた。当然、送迎バスはもう出てしまっている。再度会社に電話すると、港南行きの路線バスに乗り、港第二というところで降りるように指示される。その通りにし、会社に着いたのが9:07くらい。10分弱の遅れで済んだのは実にありがたい。早速、Sさんと一緒に5番の小分け。午後は、いつもオリコンを出す人が休みだったので、私がオリコン出しをやるが、昨日の大雨で、オリコンがかなり濡れており苦労した。何しろどれもこれも濡れているので、濡れているのを全部弾いたら仕事にならぬのである。しかし、途中で投げ出さず、何とか最後までやり終えた。今日は店舗数が少ない日だったのも幸いだった。これで店舗数が多い日だったら参ってしまっていただろう。加食ボールが終ったら、菓子ボールに応援に行く。Nさんから「何があっても6時までだよ」と言われていたが、18:00になっても、仕事は終らず、人手不足だし忙しい模様。今日は私は絶好調を維持していたので、疲労もなく、「Kさんがいいと言えば、残ってもいいですよ」と自ら残業を申し出る。快諾され、シール出しの仕事を続ける。オリコンを作りながら。菓子ボールが18:30頃終り、加食に上がってKさんと二人で新規の小分けをした後、少し5番の小分け。そして白いワゴン車に乗って新浦安へ。
予想もしなかったことだが、賃労働が自分の人生で占める割合や意味が非常に大きくなってきているのに気付いた。私自身のこの変化について考察し、分析を加えねばならぬと思う。そのことをずっと考えていた。「仕事を選ばない」「与えられた仕事は必ずこなす」私はこれをパートタイマーの職業倫理、労働倫理と考えている。パートタイマーとは労働時間を切り売りする者である。だから、売った時間のぶんだけは働かねばならぬ。金銭で労働賃金(給料)というかたちで対価を得て働くのだということ、これが最重要である。金のためだけではないが、金は重要だ。そして、しっかり働けばそれなりの対価が得られるということ。これも重要だ。
労働というのは、マルクスも言ったように(別に彼でなくても誰でもいいのだが)、目的的活動である。つまり、外界の事物をこう変形・加工させようと目的的に関わって変化させるわけだ。そして仕事というのは、必ず終るものである。例えば、ごはんですよ!を小分けするとすれば、箱を開け、瓶を3個で7号の袋に入れて結わく。ここまでで一つのプロセスが終了である。一つ一つが終っていくということ、これもまた重要なことである。達成感があるわけだ。
私が自他を観察して気付いたのは、パートタイマーは擬似職人的階級意識を持っている、ということである。擬似職人的というのは、職人の技術=腕は取り替え(交換)不能だが、パートタイマーの技術は取り替え(交換)可能だからである。私の仕事は、私でなければできぬということはない。別の任意の誰かであってもやれる仕事なのである。しかし、毎日やるうちに、一定の慣れと習熟が生じ、それとともに擬似職人的な誇りなり自分の仕事という意識が生まれる。社員は管理労働だが、パートタイマーは肉体労働、手の労働であり、手、腕に技術が宿る。そしてそれが自信に繋がる。
今の仕事を始めるまで、私は、自分を雇う会社などないと思っていたし、8時間以上の労働に耐えられるとも思っていなかった。しかし、実際にはできた。自らの適応力に驚いているし、そこから喜びの情動が生じる。超人でなくとも、ごくフツーの凡庸なパートタイマーであっても、何者かになれるというのは重要なことだ。それが日々の生活の中心になり、重要な意味を帯びる。また、仕事というのが社会的な活動だというのも重要だ。自分自身や家族のみとでなく、他人と関わるということ、それも大事なことである。
ここで一旦送る。帰りの電車では、ジュニア・マンスの『朝日のようにさわやかに』を聴いていた。いろいろ考えることもあったが、それは省略。

朝日のようにさわやかに(紙ジャケット仕様)

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