賃労働三十八日目

さて、攝津正である。
自称「超人」、自称「哲学者・作家、ジャズピアニスト・津軽三味線奏者」、「芸音音楽アカデミー代表」、別名「狂気の豚オカマ」、「二和向台ビン・ラディン(笑)」、攝津「今城守(いましろのかみ)」正、攝津正 Tadashi SETTSU a.k.a. "Linda"、その実態は「パートタイム労働者、倉庫内作業員(一日七時間から八時間肉体労働する)」の攝津正である。
スローワークも本日で三十八日目を迎えた。無事終えたことを心から喜びたい。昨晩は死の淵 / 縁にいたが、今は元気に生きている。復活である!
私は、自分の労働を心の底から楽しみ、喜び、真に自由に働いている。楽しい労働というと、円い四角のような語義矛盾とも思えようが、スローワークにおいては、労働 / 自由活動の対立は和らぎ、渾然一体となるのである。
会社の上司は、かつてTさんだったが、今はWさんなのであるが、この人も優しい良い人である。パート仲間も楽しく優しい人ばかりで、環境が恵まれていると痛感する。こういう人間的なる環境の職場でないと、私は働き出すことができなかった、と痛感する。
仕事は、今日は午前がコーヒーやフレッシュの小分け、午後がピッキングだったが、私はそれらの作業を本当に楽しみ、好んでいる。私は、昨日の深刻な危機を、今日、二つの要因で乗り切れたと感じている。それは一つには、素晴らしく優しく福祉的なる人間関係であり、二つには手作業そのものの安心感を与える性格である。詳しく言うと、手作業は、一つ一つが完結し終わるという性質を持っている。そのことが、荒んだ神経の波を鎮め、心に安らぎを与える効果を生むのである。作業療法的と言ってもいいだろう。が、作業療法では賃金は獲得できぬがスローワークでは賃金が獲得できる、という違いがある。そして今日の労働時間は、9:00-17:00の七時間であった。
今日私は漠然と、超人、哲学者・作家、ジャズピアニスト・津軽三味線奏者でなくとも良い、パートタイム労働者でいいではないか、それで十分だ、と考えていた。何も不可能なるものであることを言い張らなくてもいいのでは、という現実的なる思考である。
ところで、話は変わるが、戦前の日本の知的水準は高かったとよく言われる。端的に言えば京都学派である。西田・田辺の哲学は同時代のハイデガーらに拮抗し得るレベルの思弁であった。が、知的水準が高ければ良いというものでもないと思うのである。例えば、戸坂潤が正しく指摘したように、西田哲学は本質的にジャーナリスティックな「批評」的哲学である。同時代の(当時の)「現代思想」を批評する中から独自の思索を紡ぐ。それは、68年以後のドゥルーズ=ガタリの「スキゾ的」言及を数十年単位で先取りしている。けれども、それは別に日本の哲学の名誉ではない。ジャーナリスティックであるということは、基本的或いは根本的なる哲学的精神を喪失しているということにもなりかねぬからである。
例えば、プラトンを翻訳した田中美知太郎やデカルトを研究した野田又夫は、基本的には戦後に活動を開始している。彼らは、西田・田辺らの(同時代の現代思想なる)「X」を超えて……進むというありようとは違う、哲学的精神の基本というか初心に立ち返る運動をやっている。実際、野田は京都学派と関係があったかもしれないが、田中は同時代の知識人らに対しアイロニカルであった。西田幾多郎田辺元とは違う哲学的思考の可能性を彼らは開いた。Xを超えて進むのではなく、逆に後ずさりするような本質的運動。ものを考えるという営みの根源に立ち返る思想的行動。それが、デカルトなりプラトンへの回帰である。ジャズにおいてパーカーへの回帰が周期的になされるのと同じく、哲学においてもデカルトへの参照が定期的に行われる。そこに「始まり」があるからである。
また話は変わるが、Mr.Childrenが好きなドラムのMくんが今日レッスンに来たのだが、彼が言うには、彼の友達が携帯電話で私のこのブログを面白がって閲覧しているのだという。高校生らが読んでこのブログのどこが面白いんだろう!? 私は、音楽と哲学に関しては十全な観念を有していると思っているが、高校生らは音楽や哲学に関心があるのか。それとも性の話や労働の話が面白いのか。そういう年頃だしね。しかし、改めて繰り返しておくが、私は不安神経症佐々木病院に通院し、主治医のH医師からパキシルを50mg / day処方されており、そのために完全に性的不能である。誰を好きになっても、全く現実的なる性的関係は持てない。同性であろうと異性であろうと。
では、ここで一旦送る。