賃労働三十六日目
さて、攝津正である。
スローワークも三十六日目を迎えた。今日も無事終えたことを喜びたい。
今朝、菓子ボールから加食ボールに回されたことを知る。今後は加食ボールで働くことになるらしい。午前は仕分け、午後はピッキングであった。菓子のピックが軽いが数量が多いのに対し、加食のほうは少ないが重い。
午前は眠く辛いが何とか乗り切った。15:00頃、足が痛く堪え難いと感じたが、休憩まで堪えた。休憩後は再び元気に働くことができた*1。
働いている間、幸福感に満たされた私が感じ考えていたのは、雇用主への感謝と母親・攝津照子への愛情であった*2。私の性愛は、「ママ好き」という保守的なる極と、「チンポ切り祭り」という錯乱的なる極とに分裂している。母親への愛情ということに関して言えば、私はずっと以前に、「ボクはただママ好き故にママが好きママが好き故ママが好きかも」という歌を詠んだことがある。後者に関しては、不埒なる同性愛的夢想…。ここで公言することは避けよう。強く感じるのは、私は肉親以外の他者から本当に愛されたいのだということだ。それが異性であろうと同性であろうと、年上であろうと年下であろうと構わない。その人の前で、完全に警戒を解くことができる誰かが欲しいのである。それは贅沢な望みであろうか。私はそうは思わないのだが。
帰りの電車の中で、山下洋輔と林英哲の『デュオ』を聴きながらパースの『連続性の哲学』(岩波文庫)を読み進めようとするが、挫折。
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2ちゃんねるの哲学板で、理数系ができない哲学研究者なんて駄目じゃん、という話が定期的に出てくるが、自分も実際そうだと思う。私も、理数系全滅の哲学屋だが、数学、論理学、自然科学を知らぬ哲学者なんて無意味っつーかただの自惚れ屋でしかないじゃん、とは思う。ともかく、数学、論理学、自然科学に通暁していなければパースは理解できないことはよく分かった。
攝津哲学について若干の展開と補足。私の哲学は、生を究極の価値とする哲学であり、それは具体的には「私はできる(われ為し能う)」として顕現し、身体の自然権としてある。それを社会的政治的に拡張することを昨日、今日と考えた。孤立した「私」ではなく、複数の「私達」の「できる(為し能う)」の組織化がアソシエーションであり、アナーキズムの根拠ではないか、と考えた。例えば、サウンドデモのコールの有名なのに、「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」というECDの一節があるが、これは他者=超越的なる権威者の言うこと(明示的な / 暗黙の命令)を聞かぬという意志とその実行を表現しており、「私はできる」、いや正確には「私達はできる」に属している。
プレカリアート運動は生存運動である。人間身体、人間の個体が存続し再生産される条件を求め、要求し、勝ち取っていく運動である。それはもろもろの具体的なる感性的欲求から始まる。雨露を凌ぎたいとか、まともな飯が食いたいとか、いろいろあるだろう。そして、その欲求を充足させる手段は様々であり得るだろう。