私の意見

新設しました。

最後は哲学と関係ないか・笑。

方法叙説の第二部をお読みになれば分かる通り、デカルトは複数の人間による作品より、独りの個人が仕上げた作品のほうが完全だと考えています。それを作品のみならず、都市計画や統治にまで拡張して述べています。

そのデカルトの意見は、遠く時代は隔たりますが、『国家』におけるプラトンの哲人王の構想に近いものを感じます。

ポパーを待つまでもなく、プラトンデカルトも反民主主義的です。多数者による協業・協働の意義なり流儀について思いを巡らすことがない。そして、哲学者の考えるのは往々にして、貴族制的です。要するに優れた者の統治ということです。民主主義を考えるなら、孤立した「私」ではなく、何らかの仕方で結びついた「私達」の活動の意義を考察する必要があります。それが、マルクスエンゲルスやデューイがやったことです。現代においてネグリ=ハートがマルチチュード(多数者)の群知性を語り、田畑稔=柄谷行人が「アソシエイテッドされた悟性」を語るのもその文脈においてです。そしてNAMは、分業と協業の産物でした。オンライン / オフラインの多くの繋がりがNAMの実体だったのです。私と前田さんの交流も、そこに由来しています。

アダム・スミスが『諸国民の富』で有名なピン工場の分業を語るのはヒュームの時代ですが、ともかくデカルトは一人の人間が仕上げた作品が最上だと考えています。それは、職人的なる生産段階に対応した思想です。産業資本主義にはそれに対応した別の思想があるはずです。プルードンが「集合力」を語ったのも、アソシエーションを考えたのも、その文脈で考えるべきです。

方法序説 (岩波文庫)

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国家〈上〉 (岩波文庫)

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開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文

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諸国民の富〈第1〉 (1959年) (岩波文庫)

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国富論 1 (岩波文庫 白105-1)

国富論 1 (岩波文庫 白105-1)